善と鱗

のんびり静かに暮らそう

生と死と夕焼け-EP7

 少女の風邪は四日ほど薬を毎食後飲んでいると、すぐに良くなった。青年はその様子を見ていると、どんどんとあの薬草師に早くお礼を言いたくなった。

 

 ただあの薬草師は、自分を遠い記憶ながらに覚えているのだけは気がかりであった。その変わらない閉じた扉は重く固い。青年の心に重くのしかかる扉は、天から舞い降りた奇跡のようなものが魔法でもかけて解いてくれないだろうか、とありもしない期待を脳に浮かべた。

 

 少女の風邪が治り、一週間が経った頃、少女は青年の背に乗って小屋のそばを散歩するくらい元気になっていた。そしてこの日も少女は青年の首に手を回し外の空気を肺いっぱいに吸い込んでいた。

 

「ねえ、そろそろ街へ行かない?」

 少女の突然の問いかけに青年は驚いたものの、そうだね、と答えた。

 

「あら?随分物分かりがいいのね?」

 と少女が可笑しそうに言うと青年は、

「だって君いつも薬草師にお礼を言いに会いに行くってうるさいんだもの」

 青年は呆れた様子で、ただ笑顔を浮かべて言った。その様子に少女もクスクスと笑っていた。森の空気が彼らを包んでいるのか、彼らの空気が森を包んでいるのか、その場は非常に和やかであった。

 

 数日後、少女を背に乗せた青年は街へ向かった。山を下り、草むらを抜け、街を見渡せる高台へ。少女は始終目を輝かせていたが、海を前にした瞬間そのテンションは段違いに上がった。

 

「これが海!大きな大きな水たまり!」

 幼児のようにはしゃぐ彼女は片方しかない脚をぶらぶらと揺らして体で感情を表現している。そしてすぐに落ち着いて、少女は街へ目を移し懐かしそうに眼を細める。

 

「私が小さい頃いた街とは全然違うけど、なんだか素敵なところね」

 そう微笑む彼女を青年は愛おしく思った。誰よりも君に幸せになってほしい、そう願った。

 そして青年は不安になった。薄いシーツを長いスカートのように巻いて脚はほとんど見えていないが、今回は街の中心まで行く予定なので街の人々が彼女を奇怪を見る眼で見ないか、彼女がそれに心を痛めないか、青年には他の何よりもそれが心配であった。

「ね!早く生きましょう!」

「そう急かさなくても街は逃げないよ」

 そんな心配はつゆ知らず、少女は笑う。青年はそれに応えるようにまた笑う。そんな二人は街へ向かう。

 

 街に入ってすぐ、いわゆる街の外れにあの薬草師の店はある。まずはそこに行ってお礼を言おうと二人は決めていた。

 クリーム色の壁に包まれた薄明るい店内に入る。少女もここに来るのは二度目だが、前回は意識が朦朧としていたので初めての心地がした。青年がすみません、と声をかけると店の奥からあの漢方着の老婆が出てきた。おやおや、と眼を細めて笑う老婆に少女は一瞬身を強張らせたがすぐに元に戻った。

「もう良くなったんね、おじょおさん」

 あの日から早くも一ヶ月近くが経とうとしていたが、変わった訛りのある話し方も老婆の顔のしわも何も変わってはいなかった。青年はそのことにほっとして本題を伝える。

「お婆さん、先日はありがとうございました。彼女の熱は

 薬を飲んで四日もすれば治っていたのですが、安静に、

 養生を、と心掛けるあまりお礼が遅くなってしまいまし

 た

 丁寧に頭を下げる青年に対して老婆はにこにこと笑顔を向けて頷きながら佇んだ。そこに青年の背中から椅子に移り、背もたれに背中を預けて座る少女も、そわそわと何か言いたげな眼をする。青年は当然それに気付き、目線で言いなさい、と合図を送る。

「あの、お婆さん」

 一度言葉はそこで切れる。青年以外の人間と話すのは何年ぶりか、やはり緊張するのであろう。あ、その、と口の中で小さくモゴモゴとする少女に、老婆は優しい眼差しを向ける。

 青年はゆっくりでいい、そう心で囁いた。それは一見少女のためのようにも聞こえるが青年自身の願いでもあった。少女の早くて目まぐるしい成長が少しでもゆっくりになればと望んだ。それが彼らのタイムリミットとなるのは青年にもわかっていたから。

「ありがとうございました!」

 青年の祈りに似た思いも虚しく、少女は青年の背中からキラキラと輝く瞳で老婆にお礼を告げた。青年からすれば少女の成長は寂しい、だが確かに嬉しいことだ。

 青年は微笑んで老婆にお代を渡した。薬に対するお代というよりは、感謝からくる「これで好きなものを食べてください」という気持ちのお代だ。額が足りているのか、それとも足りていないのかはわからない。それは老婆にしかわからないことだ。そしてこの感謝のお代の過不足もまた僕等にしかわからない。老婆はそれをきちんと理解してくれる人だと思う。だから青年と少女は誠心誠意お礼を伝えた。

 

 老婆はお代の包みを受け取ると中身は確認せずに確かに、と受け取った。優しい微笑みには一寸の闇も曇りも見えなかった。二人は出されたお茶を飲むと老婆と握手を交わして店を出た。老婆はカウンターから店から出る二人を見送った。天井からぶら下がった薬草が二人が去る時、風でゆらゆらと揺れた。

 

 当初の目的を果たした二人は探索をすることにした。それは少女のかねがねの希望であった。青年は少女を背負った体勢のまま街を練り歩くことになる。なんでもない赤レンガの道を少女は興味深そうに見つめる。背負われた彼女から見えるその地面は遠くて小さいものだが、少女は上へも下へも興味を巡らせた。

「あれは何?」

「魚屋さんだよ」

「これは何?」

「マンホールさ」

 少女は言葉を覚えたての子どものようにあれはなんだこれはなんだと青年に疑問をぶつけた。青年はそれに大雑把に易しく答える。

「あそこに入ろう」

 青年がそう提案したのは女物の服屋さんだった。青年は少女に病服や己のシャツを着せていることに段々と心苦しさを覚えていた。そこで今回の機会でもう彼女の服に困らなくていいように、女物の服を買ってあげるつもりでいた。

 店に入る手前で簡単なブラウスやシャツ、スカート、下着などを買い揃える旨を説明すると少女は一瞬嬉しそうな顔を見せたが、その顔は次第に曇ったものへと変わる。青年はなんとなく少女の言いたいことはわかる。

 他人なのに、脚がないのに、きれいな服なんて自分には勿体無いのではないか、そんな思いは、コンプレックスを持つ人間なら誰でも持ち得る感情だ。

 もちろん、青年も感じたことがある。何も食べずとも生きれるのに、美味しいもの、食物を毎日食べるなんて自分には勿体無いのではないか、そんな思いをしていた。しかしそんな思いとは結局、湧き立つ欲に任せるという決断をしてからは無縁となった。青年は少女に言った。

「君には洋服が必要だよ。着飾る自由だって君にはある。

 だって君には体があるんだ。手も足も顔もある。少し足

 りないからと言ってそれが不要の原因になるとは言えな

 いと僕は思う。そして何より大事なのは君がそれを欲し

 ていることだ。君がいらない、と心から言うのなら僕は

 無理に君に着せようとなんてしないよ。ただ君が着たい

 ものがあるなら、それを当然僕も止めない。だって僕ら

 は助け合う、似た者同士だから」

 そして少女は小さく、スカートが欲しい、と呟いた。

 

 買い物は順調に進んだ。荷物も沢山増えてそろそろ帰ろうか、そんな時だった。

「ベル兄さん……⁈」

 しゃがれ声が悲鳴にも近い声を上げた。青年は血の気が引くのを感じた。なぜなら、しゃがれ声の叫んだその名前は、かつて自分が使っていた名前だったからだ。

 青年は目の前にいる老人をじっと見た。どこの家の子だったかと頭を巡らせたが、もう子どもの頃どんな姿だったかなど想像できないほどにシワクチャになっていた。

 少女は青年の顔色の悪くなる様を間近で見ていた。サアッという表現が実に似合うその様子に、少女は正体のわからない恐怖に襲われた。ギュッと青年の首に巻きつけた腕に力を込めると、青年はハッと口を開いた。

「嫌だなお爺さん、どなたか存じませんが僕はベルなんて

 人間ではございません。ああ、ただ僕の祖父の名はベル

 と言ったかな」

 少女はとってつけたような笑顔と焦ったような普段より少し早い口調の青年を見て、青年の震えを感じていた。

「そうか、奴が生きているわけがないよな」

 老人は青年の答えに怪訝そうにはしながらも、納得したように見せた。少女からしてもわかる、青年の祖父くらいの年なら生きている可能性は著しく低いこと。しかし少女から見れば青年が嘘をついていることも手に取るようにわかった。一体どんな秘密を隠したというのか、少女にはまだ合点がいかない。

それは少女の心にも靄をかけてせっかくの楽しいお買い物がまるでなかったことのようにくすんで感じた。

 

 青年はその後、その老人から逃げるように愛想笑いをして高台の方角へ歩き出した。少女は人には知られたくないことの一つや二つくらいあることは重々承知だった。自分もそうなのだから。しかしこの青年の以前言っていた秘密というものに、少女は少し疑問を抱いた。

 帰り道、青年はよく話した。明るく振舞うように努める様子は、少女には余計に痛々しく映った。

 

生と死と夕焼け-EP6

 水を飲ませた後、彼女の意思はわからないが、食事をさせないと薬を飲ませられない。よって青年は水と同じようにスープを口に運ぶことにした。熱いスープで口の中が爛れたら可哀想だ、と少しずつ冷ましながら口に運ぶ。

 

 水と違い零すと匂いもつくのでより慎重に食べさせる。主食となる栄養もとってほしい、と青年はマッシュポテトを口に含み軽く咀嚼し、少女に口付けた。舌で自分の口から押し出し、少女の口へ移す。顔を離すと少女の喉がなり、上下に動くのを待った。そしてそれを確認するとまた同じように繰り返す。ゆっくりと食事の時間が流れる。

 

 マッシュポテトで良かった、この時青年はホッとしていた。長生きをすると色んなことに寛容になると言うが、いくら青年でも年頃の少女に自分の咀嚼したものを口移しすることには、やはり抵抗がある。

 

 鳥の親子のような見た目であれば、受け入れられたかもしれないが、しかし実際問題、自分と少女の口移しなど、もはやそういったプレイのようにしか見えない。青年からしても心穏やかとはとてもじゃないが言えなかった。

 

 少女の熱が下がった時にこのことを覚えていたらどうしよう、そんな不安も降りかかってきた。今は意識が朦朧としているからか何も言ってこないが、気付いた時にまたこの間のように激昂されると困る。青年自身も穏やかに行きたいと思っている。しかしその反面、青年の中の人間的欲求は別の主張もしてきていた。

 

 どうも青年は弱っているこの少女を見ると人間的欲求が顔を出すらしい。熱で朦朧とする意識と虚ろな瞳、汗で額に張り付いた前髪や首筋に張り付いた細く長い髪、口づけの時微かにかかる熱い息。その全てが青年に欲と言うものを嫌という程に意識させる。

 

 食事を終わらせると、すぐに青年は薬に湯を注いで少女に飲ませ、ブランケットを掴み包まって床に身を任せた。そしてきつく目を閉じて夢を求めた。

 

 早朝に少女は目覚めた。白く霞んだ外の薄明かりに包まれた室内は世界が冬眠を始めたかのように静かだった。少女がくるりと首を回し見ると、静寂に包まれたこの世界に息をするのは床で眠る青年だけのような心地がした。

 ほっとした少女は、ふと見ていた夢を思い出した。それは長い悪夢であった。

 

 少女は夢の中である女性とお付き合いをしていた。恋などしたことはなかったが、夢の中ではそれが当たり前のように受け入れられていた。少女は昔住んでいた近所の川沿いの道を歩いていた。夏の太陽の暖かくまぶしい光に包まれて、少女は歩いていた。

 

 ふと向こう岸に女性が見えた。長い長い黒髪を携えてこちらを見ていた。少女は瞬時にそれが自分の恋人だと気付いた。しかし虚ろな瞳のその女性は、少女に気付いていないようだった。なので少女は特に気にせず家に戻ろうとした。夏の光は消え失せ、曇天、月の光に照らされた。

 

 次の瞬間向こう岸にいた女性は少女の真後ろまで来ていた。足音のしない浮遊したような無音に少女は言い切れぬような恐怖と不気味さを感じ、後ずさった。

 女性は笑顔だった。

 

 少女は弾かれたように走り出した。その体は一瞬宙を飛ぶ。ふわりとした内臓の動きに気持ち悪くなる。彼女はただ恐怖心だけで走った。そこで目が覚めた。

 

 夢の中の自分が逃げ切れたか、そうでないかは見届けれなかった。しかし、おそらく自分は逃げ切れなかったであろうと少女は感じた。

 

 目が覚めた彼女は思った。あの時手を差し伸べればよかった、と。女性と自分は恋仲だった。ならばどんな不可解な状況でも手を差し伸べ、話を聞くのが一番であったはずだ。

 

 それをできなかった自分を少女は恥じた。

 

 少女の目には涙が溜まっていた。ずっとずっと動かなかった心が盛んに動き、肉体を動かす。少女はそんな当たり前が不思議で、堪らない気持ちになる。喉の奥が閉まるのを感じた。

 

 同じ頃青年は夢を見ていた。少年がいる。少年は広い広場の真ん中で泣いている。小さな肩を揺らして泣いている。

 

 青年はその少年に近付いた。見ると、少年はお墓を作っていた。青年は少年に何のお墓か尋ねようとしたが、声が出なかった。

 

 少年はグルンと首を回して青年を見た。唐突に向けられた真っ黒な闇の瞳に青年は畏怖の感情を持った。少年は言った。

 

「死んじゃった、死んじゃった。僕の大切なお母さん。死んじゃった、死んじゃったんだ、僕の大切な弟。死ねばいいのは僕なのに、死なないといけないのは僕なのに。みんな僕を置いて死んじゃった。」

 

 歌のようにそう呟く少年の目にはもう涙はなかった。青年はとっさに抱きしめようとしたが、少年は空へと浮かび、不思議の国のアリスに現れるチェシャ猫のように消えた。

 

 魔法の粉はここにはなかった。

 

 青年は目覚めた。後味の悪い夢だと少し腹が立った。そして同時に寂しかった。わかるのだ、あの少年は姿形は違えど、自分を写していること。青年の目は彼のように淀んで闇色だということ。涙はもう流れないこと。

 

 青年は起き上がり、調理場へ向かおうとした。しかしその足はある音により動かなくなった。

 すすり泣く音が聴こえる。嗚咽をのんで、ただ静かに涙を流す音が。

 

 青年は少女のベッドに駆け寄った。少女はシーツの中で自分自身を抱くようにして顔を顰め涙を流していた。青年は夢を見たのはこのせいかと安心した。

 

 少女は青年の方をちらりと向くと視線を枕にずらす。青年はベッドに上がり、ただ少女を優しく抱きしめた。

「夜泣きなんて赤ちゃんみたいだね」

「うるさい」

 ぐずぐずと今度は声を出して泣き始めた。青年にはわかる、少女も夢を見たんだと。それが自分の半身とも言える悪夢だということも。

 

生と死と夕焼け-EP5

 深い森を抜け、小さな港町の見下ろせる高台にたどり着いた。飛び越えない様にと巡らされた黒い柵と、景色を眺める人間の憩いの場になるべくして置かれた優しい色のベンチが太陽の光を浴びて佇んでいる。そこから眺める街の風景はモネの描く絵画の一部のように鮮やかで、淡くて、遠く、幻想的だった。

 

 街の道や壁に敷き詰められた赤煉瓦は茶色ぽく色を変えて、人々の服に白という色はなく、クリーム色ぽい布たちが揺れている。店の上に張られたテントは赤く錆び、ふくよかな女性がエプロンの端で指を拭いて店頭に並べられた果物に触れる。豪快に笑うバイキングのような大男が魚を売り、癖毛の目立つ小さな男の子が犬と共に駆けている。とても平和で幸せに見える街だ。

 

 しかしこの街は過去に一度戦争に燃えた。そしてちょうどその頃、青年はこの地を去った。当時、徴兵に巻き込まれないためだと陰口を叩いた者もあった。我が子は死んだのにと呪う声もあった。しかし青年が例えあの戦争に赴いていたとして、亡くなった彼らと同じようになれたか、戦力の足しになったか、そんなことは誰にもわからない。青年はその古き呪怨と軽い風の吹く港町の風景とのそのコァントレリーコンセプトに頭痛がした。

 

 一度燃え落ちた地も年月を経ればここまで回復するのだという事実は尊いものだ。今ある街の風景や色のくすみはこれから先のまだまだ続く繁栄を表すようだった。彼らがここで止まることは決してないだろう。失くし、再生し、それを育てる。何かを生み育てるのには一度全てを破壊するのが最も手っ取り早いと誰かが言っていたのを思い出した。

 

 海風が頬を撫でる感覚にしばらく身を投じていた青年は海鳥の鳴く声で古き記憶から現実に引き戻された。青く遠い空で翼を広げ飛ぶ鳥はどんな心地だろうか、そんな子ども染みた思想が浮かんだ。

 

 青年は高台から街へ向かい下り始めた。夢想しているような足取りで赤い煉瓦の道を踏む。青年は魚や肉、形のいい葉物野菜、それに主食となる芋やパンを持てるだけ買った。

 

八百屋のおばさんは気前がよく青年の顔を見るとこれもこれもとおまけにしてはいささか嵩高い手土産を持たせてくれた。青年は両手一杯に籠や袋を抱えてまた森の中へと足を進めた。

 

 少女は怒った。それは青年からすればかなりと怒っていた。

「嘘つき」

「嘘は言ってないよ」

「嘘 “は ”と言ってる時点であなただって後ろめたいと感じたんでしょう?」

「君は随分上げ足を取るのが上手だね」

「それほどでも!」

 

 少女の怒り口調につられると喧嘩になってしまいそうな会話だった。青年は決して悪意から少女を置いていったのではない、少女を守ろうとしてのことだった。

 

 しかしそのことを少女自身に伝えれば、彼女は己の無力と弱さにまた苦しむだろう。青年は少女を苦しめたいわけではない、むしろなんでもさせてやりたくてあの場所から連れ出した。なのに今の自分の心持ちは彼女の両親とニアリーイコールだ。青年はそんな自分が非常に愚かに思えた。

 

「君に街に出ると伝えなかったのは悪かったよ。

 ただこれだけの食料を買いに行くのに

 慣れた僕一人の方が効率的だったんだ」

 彼女が傷つくかもしれない、そんな恐怖にも似た感情を抱えながら、青年は真実とかけ離れない言葉を見繕った。この様子ではこちらの出方に次第で、夕ご飯を食べてもらえない場合も考えられる。それでは本末転倒だ。

 

 少女は不機嫌から回復することなく少し黙って、

「じゃあ次は私も連れていって」

 とぶっきらぼうに言い放った。そのむくれた頬には青い血管と赤い血潮が見て取れた。

 

青年は少し困ったがその困った事実を隠してうん、と短く答えた。

「じゃあ、ご飯にしようか」

 そう言葉を続けて台所へ向かった。青年自身逃げたと感じるが、少女の目にどう映ったのかはわからなかった。

 

 蒸かした芋でマッシュポテトを作った。青年自身主食を食べるのはいつぶりだったかわからない。付け合わせにソーセージを二本焼いた。籠から葉物野菜を取り出し水にくぐらせ、五枚ほどちぎり一皿ずつに盛り付けた。一つの皿に全て盛り付けて、マッシュポテトには塩と胡椒を散らした。胡椒は贅沢品と言われることも多いから、きっと少女は食べたことがないだろうと青年は考えた。最後に固形物を食べたのはまだ齢が “つ” で数えられる歳の頃のはずだ。そんな子どもに贅沢品を強いて与える親は少なかろう。

 

 しかし、青年のそんな予想は外れた。少女は胡椒を齢が “つ” の時から食していたし、それを今まで忘れずにいたのだ。青年はこれに愛と名付けるべきか、愚かと名付けるべきか悩み、少女の表情を見て前者とすることにした。

 

「美味しいかい?」

「もちろんよ、これが自分も一緒に買いに行った物であれば今の五倍は美味しかったでしょうけどね」

「君は口が減らないね」

「当たり前よ、まだ怒ってるんだから」

「また今度、一緒に行こう」

「絶対よ」

 

 そしてそんな約束を果たすべき日は思っていたよりもずっとすぐにやってきた。少女が熱を出したのだ。薬となる薬草を買いに行かなくてはならない、そのためには少女を医者でも、薬草師にでも診せなくてはならない。しかしこの小屋のことは知られたくない。そうなればもう少女を街に連れて行く他に術はないのだ。

 

 息苦しそうな吐息が少女の口から漏れている。呼吸のリズムは不規則で、酸素を求める金魚鉢の金魚のように口をパクパクとさせて息をしている。

 

 きっと少女にとってもこんなに苦しいのは初めてだろう。ずっと病室にいた彼女からすれば、今の彼女を取り巻くこの環境は劣悪極まりない。それに一緒にいるのがもう何百年も生きた青年で、長い生で鈍感になった彼の感覚の元では十分に行き届かない気遣いが多くある。室温、食事の栄養バランス、水質、服飾、彼にとってはどれも些細でどうでも良い物だった。青年も彼女にとってはそうではないと頭ではわかっていた。

 

 しかし過去を悔いてももう遅い。懺悔の余裕はない。今この瞬間に苦しんでいる少女を青年は助けなくてはならない。病室から持ち出したシーツにまた少女を包み、収納からかなり埃っぽい毛布を一枚引っ張り出した。荒い呼吸の元この毛布では更に辛いだろうと青年はそれを念入りに風に晒し、長い手を鞭のようにしならせ叩きつけた。キラキラと陽の光が差し込んで、舞った埃も光った。

 

 外は暑いかもしれない。しかし青年は遠い昔に母親に言われた言葉を思い出していた。

「熱が出たら嫌でも体を温めなさい。冷やしてもいいことなんてないんだから」

 遠い昔のことなのに、まるですぐそばに母親が立っているかのように青年はその体温を感じた。

 

 青年はしっかりと叩いた毛布をシーツの上から彼女に巻きつけた。長い毛布で彼女の足までしっかりと覆われている。少女は息苦しそうに身をよじったが、青年はそれに一言謝り、抱きかかえ、小屋を出た。

 

 青年は走った。獣道すらも駆け抜けて港町を目指した。青年の持つ免罪符は少女を一刻も早く救うことだけだった。草木を掻き分けて進む道は少女にとって酷だろうか、不安は尽きない、しかし逸る気持ちには抗えない。普段は一時間半かける道のりを三分の一で駆け抜けた。

 

 港町を見渡せる高台に着いた。青い空とそれを反射した青い海は、速くなった鼓動と上がった熱と相まって真夏のような錯覚を与えた。少女は自身の熱と太陽から吸収した熱で汗ばんでいる。青年は港町を高い位置から見下ろして急に冷静になった。

 

 彼女をどこの医者に見せよう。医者というものはいつでも煩わしく、親切なふりをしては無知な者から搾取する詐欺師のようなものだと青年は記憶している。それは偏見かもしれないが、当時の街にはそんな医者が横行していた。

 

 薬草師の方が古風な分青年自身馴染みがある。しかし万が一症状が重く入院の必要があった時に二度手間だ。青年は決めかねた。

 

 しかし今悩んだ内容は自分の目線のものであることに気づいた青年は、少女の目線について考えた。少女は仮に入院となった時大人しく入院を受け入れるだろうか、ずっと病室に囚われていた彼女にとってそれは屈辱的なことなのではないか。

 

 青年は手近な街の外れの薬草師を訪ねた。クリーム色のコンクリートの外観に焦げ茶色のテントが頭上に張り出されている。中に入ると店内は薄ら明るく、薬草師は白い漢方服のようなものを着ている老婆だった。

 

「おやまあ、えらい別嬪さんが来たんねえ」

 老婆は訛りの強い言葉で来客を出迎えた。

ゆっくりとした動作で青年に掛けるように指示し、自身は店の奥のカウンターでお茶を置いた。青年はそんなゆっくりとした動作にとろくささを感じて早口に少女の状況を説明した。老婆は話を聞いているのか聞いていないのかわからない様子でええ、ええ、と相槌を打ち、話し終わったところで、老婆は青年に抱えられた少女のそばに寄り、熱を測ったり喉の奥を見たりとしていた。また少女に体調を尋ねたりと頭痛や吐き気などがないかなどの簡単なカウンセリングをし、また店奥のカウンターに戻っていった。

 

 老婆はそばにあるすり鉢を引き寄せ、カウンター奥の棚にある干した草や木の実なんかをすり合わせた。

「七日分や、これに湯を注いで一日三回飲ましい」

 そう言って老婆は白い紙に包んだ薬を青年に渡した。

「おいくらですか」

 薬がもらえて落ち着いた様子の青年は老婆に尋ねた。白い包みは軽いものが入っているはずなのにずっしりとした重みがあった。

 

「いくらやったら出せるん?」

 老婆の逆の問いに青年は驚いた。

「そこまで裕福でないのであまり期待しないでください」

「ちゃうよ。お代はいつもお客様の満足度と

 比例させてもろてるんさ」

 つまり後払いでいいよ、と老婆は軽く笑って見せた。老婆の顔の目尻や目の下のしわがより深く刻まれる。

 

「……よくこんな余所者にそのようなことが言えますね、ここにお代を渡しに帰らないかもしれないでしょう」

「そんな方もたまにはいらっしゃるわねえ」

「それではあなたの生活だって危ないでしょう」

「お生憎様、こんなもんボランティアみたいなもんやからなあ、むしろお代を渡しに来てくれたら儲けもん、くらいの気持ちでおりますんよん」

 

 なんて変わった人だろう、青年にはそんな言葉しか頭に浮かばなかった。青年が病に罹っていたような時代でも確かに薬草師は変わり者が多かった。それでもこんなに欲のない人もいるものなのかと青年は驚愕した。

 

 これまで、青年に与えられる優しさは打算的なものばかりだった。美しい彼とお近づきになりたいだとか、誰かを助けることで自分も救われたいだとか、常に人は人か神に対して交換条件を突き出す欲深いものであった。青年自身も少女と出会った時、人間としてのその一面の健在を感じた。自分の中にある愛おしい人間的思考だと思っていたものがこの老婆にはないのか、その思いは彼の心を弱くした。

 

 青年の少し曇った表情を見て、老婆はたわいもない話をと話を始めた。

「お兄さん見てるとなあ、むかーしに見た近所のお兄さんを思い出すわなあ」

 

 青年はハッとした。そして大きく首を振り老婆を見た。

「あ、もしかしてお兄さんのお父さんとかおじいさんとかやったりするんかなあ。もうずっと前のことやし、顔もはっきりとは思い出せへんねんけど、オーラ言うんかな、なんとなくあの人を思い出すんよ」

 

「それは多分祖父だと思います。一時期ここの辺に住んでいたと聞いていますので」

 溜息のようにそう言う青年を見て老婆はそうかあと息を吐くように答えた。

 

「街の人みんなお兄さんのおじいさんのこと大好きやったんよ。ほんの数年しかいはらへんかったんやけど。私のお姉さんなんかはほんまにぞっこんでなあ、色男やってん

 自分のそんな評判を目の前で聞くとなぜか気持ちが萎えるのはなぜだろう、青年はそんな疑問が浮かんだ。

 

「おじいさんは頭も良くて愛想も良かった。子供に遊んで言われたら断らんのよ。それが逆に、ちょっと心配やったけどねえ」

「心配?」

 青年は聞き返した。

 

「そら心配さあ。人間は人のために生きてるわけちゃうねんから、人の予定に全部合わせて自分が蔑ろになってるんちゃうか、と小娘ながら心配したさあ」

 青年は思い出す。

 

 あの時は、街で生活する時は、街の人びとに馴染むために誘いは断らないようにしていた。オンオフは街か山かと言う決め方だった。だから街では常にオンの状態だったのだ。それが人によっては心配という違和感に繋がるとは、思ってもみなかった。青年が鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていると老婆はしわを濃くして微笑んで言った。

 

「自分のために生きることは悪でないよ。人に合わせて生きるなんてそもそも不可能なんやから。しかしそれをわざわざしんどいのにするのが私ら人間ではあるねんけどね

 

 そう言うと続けて、早く帰って薬飲ましたりい、と言って光の差す店の奥へ入って行った。青年は「ありがとうございました」と小さな声で挨拶をして重い足取りで店を出た。行きに走った疲労のせいだと思う。筋肉へ乳酸が分泌される感覚がした。

 

 動きの鈍い体に鞭を打って青年は小屋に戻った。小屋に着くとすぐに少女をベッドに寝かせて食事を作り出す。

 

 いつものように蒸した芋をすり潰す。慣れた手つきであるがどこか心ここにあらずで虚ろな瞳である。噛む回数の少ない方が楽だろうと細かい玉ねぎの浮かんだスープを作った。マッシュポテトに軽く塩を振ってスープを注いだ皿に一緒によそった。

 

 青年は少女に声をかけた。少女は青年の呼びかけに薄く目を開けたが、その瞳はぼやけていた。少女から見る景色はダリの描く世界のように無秩序で混沌としており、それは悪い夢のようで少女は吐き気を感じた。

 

 青年は虚ろな瞳の少女に、喉は乾いてないか、食事はできるかと声をかけたが、夢遊中の彼女からは返事がなく、仕方なく少女の顎を支えて彼女の口に水を運んだ。気道を塞がないように少しずつ透明な水を流し込む。少女の力無く小さく開かれた口の端からは時折一筋の雫がこぼれ落ちる。それはシーツに落ち、色を変えて染み込んでいく。青年はこれが落ち着いたら、シーツの洗濯のタイミングに悩むことになるだろう、と一人憂鬱を抱えた。

 

生と死と夕焼け-EP4

 少女にとって二度目となる死との遭遇は、まさに青年と出会ったその日だった。突然窓の外に現れた天使が、己の生きるための管を全て取り除いたのだ。その時のことを思い出すと少女は身震いをした。

 

 そして同時に、今その管なしで平気な顔をして過ごしている自分にも悪寒がした。もしかして不死身の薬でもあの天使に飲まされたのかもしれない、そんな思いまでした。少女にとってこの青年という存在は確実に恐ろしいものだった。それは生きる術を奪い、微笑む悪魔だとも表せたから。

 

 しかし少女はあの出来事から一つの自分を見出していた。それは生に執着する自分である。寝て、起きて、息をするだけの生活の中で死んだ心が、あの生と死を意識した瞬間に目覚めたのだ。それは少女と言う人間を生み出したことにも等しい。

 

 少女は考えた。彼と自分と、一体どこが似ているのか。どこが彼の中で重なったのか。他人である自分が考えても仕方のないことだと思いつつも、少女は頭を捻らせた。彼は自分を理解してくれたのだから、自分も彼を理解できるはずだ、とそんな持論まで構えた。

 

 少女と青年はその小屋で静かな夜を迎えた。年頃の女子と青年とで明かす初めての夜は、緊張に包まれるものだと思われるだろうが、そんな一般的な思想とは裏腹に彼らの夜は穏やかに明けていった。それは青年も少女も揃って、一晩中終わりなき問題に頭を悩ませていたせいかもしれない。

 

 朝日が昇る。それは朝の深い霧の間を縫い光を彼らの元へ運ぶ。青年は床でクッションとブランケットを抱き、坐りこむように眠っていた。少女は小さなベッドで昨日と変わらずに薄いシーツに包まっている。

 

 しかし少女のその目ははっきりと覚醒を示しており、これまで繰り返し続けた二度寝を許さない眼光が朝日にも勝って輝いている。少女は一言青年に声をかけた。

「おはよう」

 

 小さな声の挨拶だ。そして少女ははまるで五、六歳の幼女のようにシーツと絡まって遊びだす。少女がシーツの感覚をこれほど楽しく感じるのは脚があった頃以来かもしれない。ただ、ない脚の断面を守るために窪み覆う皮膚から伝わる、冷たくすべすべしたシーツは気持ちがいい反面で恐怖を与えた。

 

 少女はシーツの感覚をその身いっぱいに感じた後、もう一度挨拶をした。

「おはよう!」

 青年はその大きく明るい声に驚き、肩を揺らして顔を上げた。そしてその少女の赤子帰りにも似た態度にまた酷く驚いた。そして彼はこう解釈した。

 

 彼女にとっての敵であった両親の元から離れた今、子どもとしての彼女が目覚め、ずっと塞ぎ込み、抑え込んでいた幼気な無邪気が爆発しているのだ。

 

 しかし彼は親ではないし兄でもない、そういった稚拙な存在との交流経験は無に等しかった。彼は困り果てた。一人で何が可笑しいのかクスクスと笑いながら、コロコロと転がる少女をただ呆然と眺めた。彼女が転がると長く淡い栗色の髪がサラサラと流れ、朝日に照らされたそれが金にも銀にも見えきらめく。それは夜空を輝く星の群生にも近しい。青年ははたりとして尋ねた。

「昨日のスープは美味しかったかい?」

 

 少女は動きを止めて青年に顔を向けた。その表情は至極真面目で、唇をきっと結んで二秒、青年を見つめた。そしてすぐに表情をころっと変えてニコーっと効果音がつきそうな笑顔を浮かべた。青年は悪さをしたような気持ちになったが少女の笑顔が純粋に嬉しくて微笑んだ。人と笑い合えると言う幸せを感じるのはいつぶりだろう。

 

 青年は立ち上がり調理場に向かうと、朝食にと昨日のスープにきのこを加えたものを少女に手渡した。少し落ち着いた彼女は静かに受け取りスープを飲み干した。

 

「朝からはしゃいで疲れただろう?もう一眠りなさい」

 そう言って、少女をもう一度ベッドで眠らせた。それを見届けてベッドから離れ立つ。

 

 一人になった青年はただ昨夜の己の愚行を恥じた。それは昨夜と全く違う少女を見て更に浮き彫りに自己嫌悪となった。口は災いの元だ。秘密を知られてはいけない。もう何百年もそうしてきたじゃないか。自分の心の中でヒステリーを起こす。彼は彼女に自分の秘密を話そうかと、昨夜本気で思ったのだ。出会って数日の彼女に。これからまともな人間になっていく彼女に。

 

「わかっている、また置いていかれるだけだ

 僕の秘密を知った者は僕の元から去っていった。

 例え知らずとも、年月が経てば僕が消える。

 また彼らは不運でその命火を断つ。

 僕には与えられない絶対的な死を彼らは、

 いとも簡単に与えられる」

 

 青年にとって口に出して言うということは、自分の思考を俯瞰視するのに有効だ。頭の中の形のない不快感が、確かな型に嵌まるのを感じた。

 

 昨夜の青年は少女に同情したのだ。それは優しさや偽善から来るものではない。ただ諦めてしまえば楽なのに、という感情から派生した感情だ。

 

 青年は彼女と似た思いを持ちながらも、ただ諦め、ただ運命を受け入れることで心の平穏を手に入れてきた。何かを代償にすることもなく長い年月を生きてこれたのだ。少女にそのことを教えるためなら自分の秘密を曝露しても構わない、と昨夜の彼は思った。

 

 そしてそんな自分を彼は今、恥じている。変わらぬ決心を己で破りかけた事実が、重く彼にのしかかった。シンとした重圧を感じる空気の中、青年はただ一人、少女の寝息に耳をすませた。

 

 穏やかな寝息に緊張が解けるのを感じる。これが少女だからなのか、人の生きる音だからかはわからない。ただ少女の寝息は彼に心の平穏を取り戻させた。彼はその寝息につられるように、呼吸が深くゆっくりになり、眠りに落ちる。眠っている少女と、その少女の眠るベッドに首をもたれさせて眠る青年の様子は、フランダースの犬の最後の一描写のように神聖で、孤独とは無縁のような心持のさせられる様だった。

 

 少女は目覚めた。そしてベッドの脇で首を預けて眠る青年を見て微笑みを浮かべた。青年ほどかはわからないが少女は青年に対し憐愍の念を持っていた。それを少女が自覚しているかしていないかは定かではない。しかし少女は昨夜の彼の言葉から、彼は自分の脚に相応しい何かを失っていることはわかった。

 

 何よりも一目見て自分と重なるものがあると相手が思ったということは、そういうことなのだろう。彼女穏やかな心境の変化を迎えていた。それは一種の享受であり成長とも取れる。また彼女と彼のシンクロニティの高まりを助長するものであることも確かであった。

 

 ふと窓際に、滑らかで普遍的な石とゴツゴツとして原石のような趣の石が置いてあるのに気づいた。そして少女はただそれを眺めた。

 

 青年は目覚めた。目覚めるとあたりは薄暗くなっていた。長い時間眠っていたのか、ただ空に雲が覆っているだけなのかを判断する材料が今の彼にはなかった。しかし確かな腹の違和感を感じたので、なにかしらを胃に入れる必要があることはわかった。

 

 青年は立ち上がろうと首を起こすと、使った後、放置して固くなった雑巾を伸ばすような違和感と、それによって与えられる雑巾側の痛みを感じた。単調に言うのなら寝違えた、と言う表現が近しい。青年が眠っていた姿勢を思えば当然とも言える結果である。

 

 青年は動きの鈍い首を上下左右と動かし、ぐるりぐるりと回して立ち上がった。激痛ではあったが一時のことだと耐えた。調理場に立つと鍋に残ったスープを見つめた。もう量はかなり少なくなっている。そもそも少女が飲むかどうかも、量がどのくらい必要かもわからずに焚いたので、青年にはこの量が、焚きすぎだったのか足りなさすぎだったのか、判断もつかなかった。少女は青年にとっての一人前の量は当然食べないが、野良猫に与える施しよりはよく食べた。

 

 青年は同じく残りわずかな山菜をすり潰してスープの入った鍋に加えた。水や調味料も足して、意味もなく使ったこともない調味料を加えた。後から少女が青年に耳打ちした話だが、案外この調味料がスープに合ったらしい。しかし、なんとなく加えた調味料の名を青年は記憶しておらず、その味は二度と再現されることはなかった。

 

 青年は翌日、ある決心をしていた。繋ぎで入手した山菜も使い切ったところで、一度街に買い出しに出ようと考えていた。しかしまだ青年はこの麓の町から離れて数十年しか経っておらず、彼にはそれが大きな不安材料となっていた。

 

 あの当時の人間たちが例えば順調に育ち、まだあの街にいるとする。母や父、祖父母世代はもういないと考えて間違いない。当時二十代だった者たちも出稼ぎに国を出ている可能性は高いし、あの街に残っていたとしても歳も歳だからもういないかもしれない。しかし、当時子供だった者たちはどうだろう、そう考えだすと青年の気持ちは大きく揺れた。

 

 例え当時幼な子であったとしても、自分のこの美しさを目の前にしては彼らの記憶が呼び覚まされるのではないか、そんな不安が彼を蝕む。今まで確実な時が過ぎるまでに一度出た街へ戻ることなんてしなかった彼の一世一代の決断の時が迫ってきている。

 

 まだ冬も明けたばかりのこの森で手に入る食料はそこまで多くはなく種類も少ない。街に出れば主食となるパンや芋も手に入る。この小屋に長居するつもりでいるわけではないが、今後移動することを考えると、体力をつけるためにも少女にきちんとした食事をさせたほうがいいだろう。そう彼もわかっている

 

 彼は一人、街へ向かうために身嗜みを整えた。少女を連れて行こうか悩んだが、何しろ寝たきりの生活から急に逸脱したばかりなのだ。片脚がないことを好奇の目で見てくる者もあるだろう。青年はそんな視線に少女を晒したくはなかった。

 

 しかし青年のそんな想いとは裏腹に少女は目を覚まして青年の様子を見ていた。

「どこへ行くの?」

 

 青年は予想外の問いかけに固まり、困惑を隠せなかった。街へ、と伝えれば少女は付いて来たがるだろうか、嘘をついて出てその嘘が明るみに出た時少女と自分の関係はどうなるだろうか、一瞬で不安材料が出揃った。

 

「少し食料を探しに出かけるだけだよ」

 嘘は言っていない、それが青年の心を落ち着かせる一筋の蜘蛛の糸だった。この返事が青年にとっては己に導き出せる最もベターな、つまりベストな回答だった。

 

「また山菜を?」

 少女の問いに短くうんと答えた。いってらっしゃい、次に少女はそう彼を送り出した。

 青年は検問を抜けたように安堵した。それは少女が自分の答えをすんなりと受け入れ、最初はグレーなものをブラックにする必要がなくなったためだ。安堵をそのままに青年は街へと向かった。

生と死と夕焼け-EP3

 

 少女が目を覚ました。青年は自分の笑い声はそんなにも五月蝿かったのだろうかと思うのと同時に、腐臭にでも気づいてしまったのだろうかと、違うと分かりながらも止まらぬ思考に心を赦していた。少女は目を開けても起き上がろうとはしない。体力が落ちているのだから仕方のないことだろう、と青年は彼女に近づいてみる。

 

「お腹は減ったかい?」

 彼はとても優しい声色で問うたが彼女は返事をしない。青年は少し呆れたが彼女はずっと飲まず食わずの点滴生活だったのだからきっと平気だろう、と一人承知した。それに生憎だが食糧の備蓄もない、一人で彼女が食料を欲しがらなかったことにホッとした。

 

 ふと青年は思いつき、小屋の外へ出た。山菜を探そう、雪も解け、そろそろ色んな生命が芽吹いているだろう、青年は慣れた手付きで手早くヨモギフキノトウなどを採って小屋へ戻った。

 

 食料を小さなテーブルに置くと、息もつかず次は瓶を持って小屋を出て、小屋のそばの井戸を覗き見た。乾いてはいないだろうと井戸に桶を落としてみる。確かにこちらの力に反発する重みを感じた。重いそれを引き上げて瓶に移す。澄んだ水を眺めて思う。

 

 彼女のためにはきっと一度煮沸した方がいいだろう、彼女の体は菌に対する耐性がないだろうから。

 一人ならそんな面倒なことはしない。青年は瓶に入れた水を一口口に含んだ。水を飲む時、天を仰がなければ飲めないと気付いたのはいつ頃だったろうか。青年の心臓は早くも少女を中心に動き出していた。

 

 少し時間が経って青年が小屋に戻っても、彼女の体制は彼が出かける前と変わらないままだった。よくもまあそんなにもじっとしていられるな、そんな感心さえも生まれた。

 

「ねえ、君は山菜は食べたことあるかい?」

 採ってきた物を洗い場まで運びながら五秒ほど待ったが返事はない。洗い場についているポンプに水を注ぎ入れて

「若い子にはちょっと味気ないかもだけど、  

 案外美味しいから安心してね」

 続けて彼女に言った。

 

 ギコギコと古い音を立てながらポンプを漕ぐ。また返事はなかった。青年は呆れた様子で洗い場から少女の傍に近寄り、顔を覗き込んだ。そして気付く、彼女は眠っていた。

 

 そりゃ返事もこないや、一人で話していた自分に気付いて可笑しくなった。口角が上がって喉が小さく鳴った。そして彼は早朝ぶりに彼女の顔をきちんと見つめた。青年が少女を見つめるその表情は愛情を隠さず、恋をしているかのようだった。

 

 

 青年は採ってきた山菜をざるに入れて洗うと、水をやかんに移して煮沸を始めた。青年は何を作ればいいのか悩んでいた。彼は美味しいものは好きだが、食事に対する執着がなく、料理のレパートリーは少ない。そのくせ使い方もわからないくせに調味料はなんとなくたくさん集める悪癖がある。

 

 青年はしばらく考えて胃に優しくて喉を通りやすければいいだろう、と湯が沸いたと知らせるやかんを黙らせた。

 ふつふつと煮滾る湯を冷ますために蓋を開けて少し見つめた。大きな気泡が下から上へと昇ってくる。その気泡は頂点に達すると割れ、消える。彼はその景色に、気泡の刹那な命に憧憬の念を顧みなかった。

 

 青年はなんてことはないスープを作った。山菜を切り茹で、塩とコンソメで味付けただけの質素なものだ。素材の味を大切にしていると言えば聞こえがいい。味が悪くなるわけがないシンプルさなのであまり料理に自信のない彼には無難な選択だった。胃に入ればいいと思っていた彼は、そんな臆病な選択に己も人の子なのかも知れないと感じた。目の前にあるスープがグツグツと泡を立てて噴き出そうとしていた。

 

 青年はスープを木製の皿によそい、煮沸して粗熱を取った水と共に、少女の眠る傍のサイドテーブルに置いた。サイドテーブルには埃のかぶったランプと読みかけの本が置いてある。青年は本を手に取りその場から少し離れて、埃を払った。読んでる最中であることを表す栞が、己の記憶のかけらのように感じた。青年はすぐにその本を本棚に直した。

 

「起きて、ねえ」

 青年は振り向き、目を閉じている少女に声をかけた。白いシーツに包まれもうかなり昇った陽の光に照らされる彼女は、春の陽の雪解けのようだと彼は彼女の白い顔を見つめ思った。少女は髪と同じに色素の薄い、長いまつ毛を不機嫌そうに揺らしながら唸った。青年は何の気なしに肩を掴み、揺らしまた同じように繰り返した。起きて、起きて、その様子は怖い夢を見た子どもが母親を起こすのに似ている。

 

 ついに少女も身体の揺れと鼓膜の揺れに揺り起こされて瞼を持ち上げた。青年の美しい顔が目の前いっぱいに広がるような距離感に、少女は意識が急に覚醒した様子で目を見開いた。その表情とは反比例的に、うめき声ともとれる小さな音だけが彼女の口からは漏れ出す。青年は少しその様子が愉快で、明るくスープを作った旨を伝えた。

 

 青年は自分の作ったものが再び人の胃袋に入る日が来るとは思っていなかった。自分のため以外に料理をしたのは幼い時母親に料理を振舞った時以来のことだ。そんなことを考えながらぼんやりと少女が自分の作ったスープを口に運ぶのを眺めていた。

 

 小さな口を小さく開けて小さな唇を少しすぼめスプーンからすすり出し小さく咀嚼する。全てが控えめで彼女の食事に対する緊張のようなものが見て取れた。青年はそんな控えめな生命活動を愛おしく思った。

 

「あんまり見ないで」

 口にスープを運ぶ手を止め少女は囁いた。青年のしっとりと見つめる視線に居た堪れなくなったようだ。青年はやっと、悪意のこもっていない視線であろうとも人は他人の視線を拒むものだと思い出した。

 

「ああ、ごめんね」

「あなたが何のためにこんなことしてるのか

 わからないけど、何か恩返しを求めてるな

 ら早く捨てた方がいいわよ。私なんかには

 何もできないのだから」

 

 素直に謝った後の少女の早口な言葉に彼は驚いた。この子は元々よく喋る子だったのだろう、そう確信した。そして同時に、あんな風に長い間誰とも意思疎通せずに黙っていたのはさぞかし苦痛だっただろう、と同情した。

 

「君が何もできないと言うなら僕だって何も

 できないさ」

「うそよ、現に貴方は私を連れ出し、こうや

 ってスープを作ったじゃない。それは私に

 はできない」

「なぜ?」

「わかるでしょう?脚がないからよ」

「それは勘違いさ」

「何が勘違いだと言うの?何が違うの?現に

 私には脚がない、歩けないし、走れない。

 私の生きる希望はどこにも」

 

 ないんだ、そう言いたげな涙が流れ落ちてスープに注がれた。青年は少女の生への執着を理解した。生きると言うことへの希望、青年は少女と同じようにそれを失くしていた。しかしそれでも変わらずに生きてきた。特に腐りはせず、抗わず、ただ諦めることで心の平穏を保っていた。そんな自分を見つけるのと共に少女の諦め切れない心の芯が見えた。

 

「君は脚のことを愛していたんだね」

「自分の体に愛着のない人間なんていないわ

「僕はそうでもないよ」

「貴方は持ちすぎているのよ、完全な体だけ

 じゃない、美しさまで持ってる」

 

「美ゆえの傲慢と?」

「そうとも言えるわ」

「私にはないもの」

「僕は君を美しいと思っているよ、だから料

 理を作るしキスもするんだ」

 

 少女は少し黙った。

「貴方が私にキスをしたのは私が哀れだった

 からでしょう、弱って生気のない私に同情

 したの、もしくは自分より劣ったものに対

 する加虐心からよ。どう足掻いたって傲慢

 さの為せる技だわ」

 

 少女の吐き捨てる言葉は酷く自虐的に思えた。悔しそうな眼が怨めしそうに青年を見つめる。青年は少し考えると真っ直ぐ少女と目を合わせた。

 

「僕は君に自分を重ねていた。だから君をあ

 そこから連れ出したんだ。だから君を殺そ

 うとした」

 その言葉に少女は顔を蒼くした。

 

「僕の秘密を知る勇気はあるかい?」

 青年は蒼くなった少女に顔を近づけ、畳み掛けるように問いかける。少女は首を縦にも横にも振らなかった。

 青年と少女はそれからはこっくりと黙り込んでスープを啜ったりそれを眺めたりした。

 

生と死と夕焼け-EP2

 次の日も、青年は彼女を見に行った。昨日と同じ窓から覗くと、彼女は枕に深く頭を埋めて眠っていた。青年は昔物語で見た眠り姫のようだ、と本の挿絵を思い出した。

 

 もちろん、青年の見た目は王子様以上に麗しいので、彼女が眠り姫ならば、この風景は絵になっているに違いない。

 

 そう一通り空想したところで、また青年は少女の病室に入り、彼女の病弱そうで非力そうな腕に手を伸ばした。その手に手を重ねると指先は少し冷えていた。

 

 彼は想いを馳せた。彼女はきっと陽の光に当たってこなかったのだろうと。彼女の肌は本当に生まれたての赤子のように白く柔らかかった。青年もかなり色が白い方だが、彼女の方がもしかすると白い。

 

 彼はそう思って重ねた手を横に並べた。まじまじと観察をしていくと、白い手首をさらに強調させるような赤い線が目に入った。そこまで新しいものではない。よくある話だ、と青年はそれを見送った。

 

 青年が視線を少女の顔に向けた時、彼女と目が合った。

彼はびっくりして後ろに少し跳ねてしまった。

 

「起きてたなら、そう言えばいいじゃないか

 ……」

 

 彼は痛そうにこめかみを押さえながらそう言った。

彼女が口をきかないことはわかっていたけれどまさか起きていたとは……まああんな風に触れられれば誰でも起きるか。

 

 そんな諦めがついたところで彼はゆったりとした動作で、彼女のベッドにきちんと足が床につくように座った。そうしてただ見つめていると、今日は彼女も青年を見つめている

 

 眺めるだけの視線じゃなく、どこか感情があるように見えた。少なくとも青年にはそう思えた。

 

 彼は彼女の意味ありげな視線に堪え切れず、彼女の頬に手を添わる。今まで感じたことのない昂りを感じた。指先が髪に触れると、桃のような甘く唾液を誘うような香りがした

 

 不思議な引力に引きつけられた。今にも消えてしまいそうな彼女の訴えかけるような視線に、彼は抗えずキスをした。触れるだけのキスは彼女の乾いた唇を彼の脳に焼き付け、離さない。一瞬のことだったが彼女の匂いが脳を駆けて彼は心底クラクラした。

 

 パチっ

 

 次の瞬間、彼女の手が、彼女の頬に重ねた青年の手を弱々しく叩いた。一瞬重ねられたのかと思うほど弱々しいのにしっかりと怒りの音色が聞こえた。青年はなんだかとても楽しい気分になった。

 

「きちんと意思表示ができるんだね」

 彼は微笑んでいた。青年は今度は彼女の両頬を包み込んでキスをした。それは深く、きちんと愛と意味を込めて。乾いた唇を潤してあげれるように、乾いた心を潤してあげれるように。彼女に水を与えれば、彼女は自分を愛する、そうどこかで青年は思ったのかもしれない。

 

 彼女はキスをただ受けとめた。途中、顔を少しそらして意思表示をするのが青年にはなんだか嬉しくて、もう一度顔を青年に向けさせて見つめ合い、また唇を重ねた。

 

 少しづつ彼女の目や口が潤っていくのに青年は快感を覚えた。弱々しい抵抗が少しづつ見られなくなっていったので、やめて顔を見つめる。昨日と同じように乱れた髪。しかし頬は桃のように色づいて、昨日よりよっぽど色っぽかった。こんな自分の欲の高まりを感じたのはもう何年ぶりだろう、青年は高揚した。

 

 青年は彼女が欲しくてたまらなくなった。そして青年は彼女にきいた。

「君は生きたい?それとも死にたい?」

 

 右手を挙げて生きる、左手を挙げて死ぬ、と彼は声に出して言って見せた。彼は彼女が後者を選んだら、彼の好きなようにしてやろうと考えていた。もちろん引導を渡すのは彼で、でも、その前にお礼として彼女の全てをもらうつもりだった。どうせ手離すものなのだから、どう扱っても罰は当たるまい。それは悪魔的思考の契約だった。

 

 彼女は乱れた髪の間から視線だけを青年に向けて、ゆっくりと右手に視線を移した。鼻に繋がった管が白く曇っていて、彼女の呼吸を感じられた。

 

 それは彼からすれば少し残念なはずの結果だった。しかし彼は早くも別の楽しみを見出していた。

「なら、僕は君が生きれるように協力することにするよ」

 彼はにぱっという音がつきそうな笑顔を浮かべた。少女は少し、目を見開いて彼を見つめた。

 

「いらないわ」

 小さな口を小さく動かして、か細い声で言った。

 青年はびっくりした。彼女が話したことにもだが、特に彼女が、あまりにも寂しそうな声色で拒絶したことに。

 

 そして彼は感じた。彼女が頑なに言葉を発さず、意思表示をしなかったのは、青年以外の何かに対する拒絶だったのだと。そして今この瞬間、青年は少なくともその何かよりは彼女に近づいたのだ。

「大丈夫さ、僕と君はよく似ているから」

 恍惚と彼女を見つめて言う。しかしその頭は覚醒していた。

 

「君はどうして管に繋がれているんだい?」

 彼女は余り動かない表情筋を動かして不快を表現した。それはそうだろう、と青年は一人思った。青年は不躾な質問をしたという自覚はあった。

 誰だって傷について触れられるのを嫌うものだ。腫れ物には触れないのが一番なように。しかしその反対に今、彼がしているのは傷口に塩を塗るのに似た行為だろう。

 

 しかし不快を示したままの少女は、小さなため息をつくとさらに間をあけて言った。

「事故に遭ったの」

「もう歩くことは叶わないらしい」

 そう言う少女の暗く、少し震えた声が青年の心をも掴み、揺らす。

 

「そうなんだ」

 酷いことに彼は一言それだけを呟いた。こんな回答が来ることも、十分に考えられたことだ。しかし彼にはその回答に対する適切な言の葉が見当たらなかった。それは長年、人との深い繋がりを避けて生きてきていたからかもしれない。

 

 静かな病室の温度は、彼らの気持ちの落ち込みにつられてか低く下がった。

「もうずっと前からここにいるの」

 彼女は心細そうに切実に話す。彼はずっと布団で隠れていた彼女の脚に目をやった。少女は観念したかのように静かな手つきでそろりと布団を避けた。そのしぐさは妖艶で、御江戸の女郎をも思わせる。しかしそんな美しい彼女は、あるべきものが足りなかった。

 

「死にたくはないのかい」

「今はね」

 彼女の微かな微笑みは、慈愛に満ちた女神のそれを彷彿とさせた。青年は頭に疑問符を浮かべながら、つられて微笑んで返した。彼には彼女の微笑みの意味はわからなかった。

 

 そうしていると廊下から足音が聞こえてきた。二つの足音は少女の部屋の前で止まり、ドアをノックする音が鳴った。トントントン、リズム感のあるノック音はその人の、人間性や感性を思わせる。

 

洋風の扉は木をつつくキツツキのように軽やかで、心地よい音を鳴らした。それは一種の音楽のようであった。だが、その心地のよい高貴な音に想いを馳せている場合ではない。青年は正気を取り戻し慌てて窓の外へ出る。少女もまたついさきほどまでの無表情に戻って、枕に深く頭を埋めた

 

 青年には少女のその様子はとても太々しく写って、青年の持つ最初のイメージとは随分と違った。仕方なく思い青年は、窓のほんそばで草草に混じり、中の様子に聞き耳を立てた。ドアが開く。

 

「今日は調子はどう?」

 そう囁く優しい声が聞こえた。柔らかくて暖かい、橙色の声。しかし彼女の返事はない。続けて、

 

「お前は私たちの宝物だよ、どんな姿になっても」

 そう深い声が囁く。低くて固い、なのに柔らかい、その深い声もまた橙色だ。しかし彼女の返事はない。

 

 この時青年は知った。彼女が両親に生かされていることを。そして口もきかず、ほとんど動かない彼女を、生かし続けることで彼女の幸せを守っていると、信じて疑わない哀れな両親を。そして、その両親に対する少女の稚拙な反抗を。青年は己と神の関係と、この親子のそれが重なって見えた。

 

 彼女は見る限りすでに健康である。しかし彼女は抗議のために屍でいることを止めようとはしない。そして少女は青年に伝えたいのであろう、私は飼い殺しにされているのだ、と。青年には少女の望みがわかった。

 

 青年は急いで自分の仮初めの家に戻った。風を切るように走り、鬱蒼とした森を抜け、荒々しくドアを開けた。そして荷物をまとめると夜中にまた病室に戻れるように走った。彼の家は台風でも過ぎたかのように荒らされ、ただ古い木の壁が彼を見送った。

 

 上弦の月の下、森を駈ける青年はさながらヴァンパイヤのようだ。駆ければ彼の長い髪はサラサラとなびき、その風を吸収し、さらに美しく輝く。高い木から露が落ちてくれば、その露は彼の肌を潤わせ、彼の永遠を証明する。自然が在り続けるように彼は在り続ける。そんな当たり前を感じる。

 

 青年は彼女と自分は違うと理解していた。

 青年は何もしなくても死にはしない。少女はあの延命器具をつけて生きてきた。己の身を犠牲にした、彼女の命を賭けた抵抗は、両親への抵抗であり、生への抵抗だ。

 

 片脚をなくした彼女、生きるための筋力が著しく乏しくなっている彼女。青年とは逆に、他力が必要不可欠で、何かをしてもらわなければ生きていけない。そして青年が理解するのと共に、少女もきっと気づいている。

 

 今のままでは自分は生きているとは言えない。息をした屍だ。自分が選んだことではある、しかし本当にこのまま自分の人生を終えていいのか、彼女は考えている。そんな彼女の葛藤が青年にはわかった。だから青年は彼女を生かしてあげなくてはならない。

 

 病室の窓に着いたら青年はまず窓を小さくノックした。触れたガラスは冷たく氷のようだった。昼間は暖かくなったが、夜はとても冷える。砂漠の地域の昼夜の寒暖差に比べれば大したことはないが。指先からシクシクと刺すような冷気に指が縮むようだった。

 

 シンと静まり返ったこの森の中では、小さな音にも敏感になる。彼女も例外ではない。ノックの音に、彼女は起きていた。青年は返事はないが窓を開け、中に入り少女の顔を覗いた。目を開けている様子に平常心で臨んだ。

 

 青年は返事をすればいいのに、とボヤいたが少女はそれを無視した。視線だけを青年の方に向けている。その視線はあたりが暗いせいか光っていて、まるで真夜中に獲物を狙う猛禽類のそれであった。昼間とは全く違う少女の印象に青年は飲み込まれそうになった。しかしそれを理性で抑えて青年は本題に入る

 

「君は今生きてる?それとも」

 死んでる?そう聞く前に少女は少しだけ首を動かした。そしてまたあの鋭い目を真面目な顔の青年に向けて

 

「生きてはいない、死んでもいない」

 と、一直線に言い放った。青年にすればわかっていたことだった。

 

「生きるって何だろう」

「行けばわかるんじゃない?」

「君は何故生きていないし死んでもいないんだ?君の中での定義ってなんなんだい」

 青年は普段より少し早口で言い放った。それは本当に少女に対して問いてるのか、それとも自分に対してなのかは青年にもはっきりとはわからなかった。

 

 少女は青年の怒ったような焦ったような問いには答えず、ただ瞳を伏せて青年の叫びに耳を傾けた。

「生きてればわかる」

 

 彼女は青年がしようとしていることもわかっていたのだろう、それは青年が彼女をわかったように。

 青年は少女のベッドから薄いシーツを抜き取り、彼女の身体に巻いた。青年はいつかの街でいつかのハロウィーンの時、子どもたちがシーツを被って仮装していたのを連想した。シーツから小さく顔を出す少女の額に軽いキスを落として、青年は彼女の脇と臀部付近に腕を通し抱き上げた。見た目の通り彼女は軽かった。身体のパーツが人より少ないせいもあるのだろう。何よりも筋肉が全くと言っていいほどない。青年は彼女の顔を覗き込んだ。頭まで被ったシーツから覗く瞳は、どこか潤んでいた。

 

「行くのは今度にするかい?」

 青年は尋ねたが彼女はそれには答えず窓を見つめた。気が強い方らしい。青年は彼女に従って窓から出た。彼女の荷物はない。

 

 青年はずっとずっと森の中を走った。草木の湿った匂いが肺を満たす。蒼白い月光に照らされて走る青年と少女はハムレットの亡霊のようであった。

 

 その一方青年は白いシーツに包まれた少女を抱き抱え走っていると、赤ずきんちゃんを飲み込んだオオカミのような気分になった。彼女はさながら白ずきん。今から向かうのは悪いオオカミの胃袋。なんて、青年を例えるものとしては品がない。

 

 しかしこの時だけは、青年は略奪という下品な高揚感に呑み込まれていた。彼女を閉じ込め飼い殺す両親から、青年はこの駒鳥を外の世界へと助け出した。その結果、彼女には苦痛が伴うかもしれない。

 しかしそれは青年の中の保障内容に含まれている。例え彼女が外の世界に耐えきれず死にたくなったなら、その時こそ青年が引導を渡し、そして彼女を偲ぶのだ。青年がしてほしいことを、彼女には惜しげも無く与えようとそう決めていた。

 

 やがて時刻は朝となり、白く輝く太陽が青年たちの進む東から昇る。目の前が明るく照らされ青年は眩しさから顔をしかめた。太陽から視線をずらすため見下ろすような形で少女の顔を見れば眠っている。その顔には疲れが滲んでいて酷く可愛そうで妖艶だ。

 

 病室の清潔な真っ白のシーツに包まれた少女は朝日を浴び、消えるように透けてとても神秘的だ。陽の光に透けた毛の色や朝日に霞んだ様子からはキツネの嫁入りを思わせる。青年は胸がむずがゆい思いをした。

 

 少女を抱いた青年は一晩中走って、ある山小屋に辿り着た。そこは青年がずっと前に一度住んでいた小屋だ。

 一人住まい前提の小さな小屋ではあるが、別邸と同じく人里離れた山の中にあるので、基本的には誰も近寄らない。つまり今回のようなお忍びの時には都合のいい場所で、またナーヴァスな気分になった時にもうってつけの場所だった。

 

 しばらくここで休んで遠い街まで移動しよう、そこで新居を構えればいい、青年は一人でそう構想しながら小屋を物色する。埃は被っているが潔癖なわけではない彼が居座れないことはない。いくつか缶詰が残ってはいたが、案の定消費期限は切れていた。

 

 少し埃を払った後、小さなベッドに彼女を寝かせると、この汚い小屋が青年には、ローマにあるルネサンス様式の古く美しい教会のように、神聖な場所に思えた。青年から見るこの少女は人を逸脱していた。病的に白い肌や細い手足は気が狂うほど美しい。同時に青年は自分が酷いことを思う生き物だと嫌気がさした。

 

 彼女が目覚めなければいい、彼女のこの美が永遠であればいい、そしてそれが自分だけの瞳に映っていればいい、彼女と出会ってから、あっという間に青年の思考はそんなことに支配されていっていた。とんだ強欲さだ。青年はこの感情を知っている。エゴだ。忌み嫌う感情であり、彼をヒトならざるものにした誰かの感情である。彼はそんな自分が可笑しかった。笑うしかない、そう一人でクスクスと笑った。

 

 自嘲の念はその身を蝕む。誰もが知っていることだ。もちろん彼も。それは内臓がドロドロと溶けてしまう感覚に似ている。彼は自分の中にある重いものが溶け、常温の水銀のように波打つのを感じた。

 

生と死と夕焼け-EP1

 太陽から降りてくる白い光が、白星の瞬きのようにシャラシャラとうるさい昼下がり。その光を浴びた桜はしなやかに枝を伸ばし、吹く風にその桃色の髪を揺らす。その姿は自然界を統べる女神の風格を現す。女神を視野に捕らえた赤茶色のレンガの家の窓から、ベッドに横たわる老婆と、それを優しいまなざしで見つめる美しい青年が見える。

 二人は静かに微笑みを浮かべ、もう何年振りかに再会した恋人同士のように、そして、おとぎ話に出てくる王子様とお姫様のように、向かい合っていた。その様子は、この空間だけは時間の流れがゆるやかであるような錯覚を覚えさせる。

 生ぬるい風がまた吹いて桃色の花びらを彼らの世界に運ぶ。花の甘く鼻腔を刺す香りが、彼らの空間をさらに幻想的なものにする。赤茶色のレンガに包まれたこの空間は、もうこの世のものではない、そんな風にも思える。

 

「人はいく時何を思うんだい」

 青年は視線とは打って変わって単調な口調でそう呟く。一拍あけ、さあねえ、とのんびりとした掠れた声が答える。その様子は恋人同士、というより幼なじみ、という関係の方がしっくりくるような受け答えであった。

 答えを聞いた青年はそっと、老婆の紙を丸めたようにしわくちゃな手に彼のしわひとつない美しい手を重ねた。

 美しい青年は老婆の手に触れて感じ取っている。しわだらけだが潤いのある皮膚、浮き出た骨や血管、それらがそのしわくちゃなものが生きたものであることを証明しようとしている。青年は己の手でそう感じ取る。

 青年は彼の美しい指を、老婆の皮の余った指に絡ませる。老婆は弱々しくも青年の指に応えてみせる。人間の余った皮はこんなに柔らかいのか、と青年は驚く。そして飽きる様子もなく青年はその手に指を滑らせ続ける。

「こんな私の傍になんて居たくないでしょう」

 か細く、しかしどこか諦めたような口調で老婆が言う。

「君は綺麗だよ、いつまでも」

 青年はほぼ間髪を入れずそう言い放つ。その後、少しばつが悪そうに老婆から視線をそらした。一見すると支離滅裂とも言える会話にならないような返事に、老婆は照れたのか呆れたのか少し笑うと枕に深く頭を埋めた。

 そんな老婆の様子を見て、青年は寂しそうな表情を浮かべ、老婆の手をキュッと握りしめた。彼は彼女からする優しい匂いが嫌いじゃない。胸いっぱいに吸い込んで、彼は走馬灯のように思い出した。

 

 

 彼はこの世の誰よりも美しかった。生まれた時から消えるその時までずっとそうだと、神と契約でも交わしたかのように洗練された存在であった。野原で咲く花や夜空に輝く星たち、川を流れる水でさえも、この世の事象のどれもこれもが彼の美しさには敵わなかった。

 彼は生まれてきただけで多くの人を幸せにできた。彼が声をかければ少女は頬を染めて喜び、その顔に花を咲かせる。彼がただ笑いかけるだけで、多くの人の心が潤おう。

 彼は生きるだけで祝福された。しかしそれは彼の秘密を知らない者たちに限られた話だった。

 

 彼は生に囚われていた。その運命は呪いのように強力で不滅である。美を愛した神が、彼に永遠に生きろと命令したのかもしれない。それとも神は永遠の美を具現化したくて彼を生んだのかもしれない。

 なんにせよ彼は神に愛されたのだ。そしてそれゆえに呪われてしまった。この世に生を受けてしまった彼はこの運命を受け入れるしかなかった。曇らない眼、枯れない肌、衰えない筋肉。いくら抗酸化剤を使ったとしてもありえない。若く見えるなんて話では説明がつかない。そうするうちに、気がつけば彼の身近な人たちはいなくなってしまっていた。

 

 そして彼の生まれた町での生活が数十年の月日を経た時、異端を嫌う人間たちのいつまでも変わらない彼を見る目は変わった。

 彼の生まれ育った街では青年が吸血鬼なのではないか、悪魔の使いなのではないか、そんな噂が蔓延った。そして周りの人間からの彼への視線は、熱を帯びた称美の眼差しから冷たく鋭い、刺すような視線に変化していった。

 魔女狩りの文化の残る土地での、その視線の意味は彼にも痛いほどにわかった。そして身の危険を感じた青年は脱獄犯のようにこっそりと街を出たのだ。それは終わりなき放浪の始まりだった。

 

 いくつもの国境をまたぎ数多くの街を数年、十数年のスパンで移り住む。今までの自分を殺し、慣れた街を出て新たな街へと向かう。そんな根無し草のように彼はこの地球上を浮遊した。ある時は砂の国。ある時は水の国。ある時は学生。ある時は学者。彼はまやかしのようだった。

 青年はこれまで幾度となく大陸を渡った。彼でも海の上にずっといることはできない、だから海は彼にとって特別だった。優れない気分が数年続くようなら、必ず大陸を渡る。道中の海で自分を洗い流す。そして色の違う大地を踏んで生まれ変わる。それが彼のルーチンだ。

 この日は生まれ変ってそう時の経っていない時のことだった。

 

 その日は随分と空が遠かった。大きな湖に映る空を眺めていると、上も下も空で、彼は自分が空に浮かんでいるような錯覚に陥った。そして彼は歌を歌いたくなった。随分と昔に聴いた歌を、この空に染まった湖にどうしても聴かせてやりたくなった。

 そうして彼はおぼろげなハミングをした。ハミングの音、風になびく水音、木の葉の擦れる音、その全てが調和を示しており神聖な雰囲気を創り出す。湖の女神も天使が舞い降りたのかとびっくりして出てくるところだ。しかし彼はそんな神聖な雰囲気の中、誰かが言った言葉を思い出していた。

 呪われたのは前世のお前が大罪を犯したからだ。

 生の始まりの頃の話だ。未熟な彼はこの言葉を真に受けていた。己の大罪について考え、償わなければと。しかしそれがどういった罪なのか、そんなことはわかるわけもなく、何十年も何百年も考えているうちに諦めてしまった。

 

 今の彼は死を望みはしない。彼は生に固執して生きると決めていた。次に神が彼の魂を手元に置きたくなって、帰ってきて、と泣いて喚いても、彼はその器を手放さない。そして彼の肉体の呪いが解かれたとしても、その魂は神の元へは還らない。

 彼の心はとうの昔に堕ちてしまっている。その天使のように美しい器の中にはどす黒い何かが詰まっている。天界に上がれるほど軽くはない。何百年もの間に溜まった重いものだ。

 

 青年は湖と別れ、隠れるように山小屋で羽を休めていた。近くに民家はなく、お隣の家までは山を下りなくてはならない辺鄙な場所である。しかし人目を気にしなくていいこの場所は彼にとっては都合が良かった。

 

 青年は羽休めのついでに山の中を探索しようと出かけた。彼は何かが見つかることを期待していたのかも知れないし、そうでないのかも知れない。ずっとずっと歩いて、彼の視界には鬱蒼とした木々から一変、拓けた光の差し込む緑のプールが広がった。その真ん中にはさながらヘンゼルとグレーテルのお菓子の家のように、ぽつんと大きな赤いレンガの家が建っている。

 彼はつたの這った壁を見つめながら、ぐるりと家の周りを歩くことにした。歩く最中、家の脇腹で東を向いて立った。昇った太陽はもう真上近くまで来ている。一室の窓のカーテンが開いていたので、彼はなんとなく覗いた。彼がちらりと覗いた瞬間、何かと目が合った。

 それは白い獣のような人間の少女だった。齢は一五くらいだろうか。真っ白な肌に淡い栗色の髪、澄んだヘーゼルの瞳。細い首、疲れた眼、袖から覗く折れそうな腕。この少女を構成するものはどれもこれもが頼りなく、少しでも目を離せば消えてしまいそうな危うさがあった。そして青年は文字通り彼女から目を離せなくなった。

 一〇秒か、一分か、十分か、わからない時間を、ずっと彼は彼女を見つめている。しかし彼女は顔色ひとつ変えなければ何のアクションもない。窓辺の鳥が飛んだとしてももう少し反応するものだ。まるで青年が景色のように彼女には見えているのかも知れない。

 彼はそう思うと、アイロニーなことだが彼女に愛おしさを感じた。青年は彼女に自分を重ねた。きっと自分と同じように美しい彼女に。

 他人の不具合を喜ぶなんて道徳上は良くないことだとわかりながらも、彼は自分と同じ不具合を歓迎した。自分と同じ不具合を持つ彼女を心から喜んだ。そして彼は思った。

 この少女はきっと同じ不具合を持つ僕を、僕が彼女を愛するのと同じように愛するだろう。しかもそれは今まで僕が向けられたことのない愛のはずだ。

 彼は面白いことを思いついたワクワクで、堪え切れず小走りで彼女に近づいた。

 窓のほんそばまで近づいて窓に手をかける。鍵はかかっていなかった。窓に手をかける青年を見ても、少女の表情は変わらず、ぼうっとその姿を眺めるだけだった。

 大声をあげてもいいくらいの出来事だろうに、と青年は冷静に一人脳内でつぶやく。もちろん、現状の彼にとっては彼女は静かな方が都合が良かった。こんなところ、他の誰かに見られたら間違いなく近くの自衛団を呼ばれる。

 そう思いながら彼は窓をまたいで少女の部屋に君臨した。ベッドと窓のある壁との間がほんの数センチしか空いていなかったので、彼は仕方なくベッドの上に降り立つ。

 青年がこんなに近くまで来ても、彼女の疲れた眼は彼をただ眺めるだけ。彼も負けじと彼女を見つめると、わかったことがあった。彼女の体には管が付いていた。それも一本や二本じゃない。それを知った彼は彼女がますます自分と同じなような気がした。

 彼女はこんなに疲れた眼をしているのに、彼女を愛する誰かのエゴは彼女を放さない。彼女はこの世にただ血の通う屍として縛られている。その姿が自分と重なった。

 

 青年はそっと彼女の手に己の手を重ねた。彼女は瞳だけを動かして青年の顔と青年の手を見た。そして彼は彼女の体についた管を外した。青年は彼女に引導を渡してあげたいのだ。腕につけられた管も、鼻につけられた管も、胸につけられた管たちも、全部丁寧に取り払った。そうしたら彼女は少し呼吸を荒くしたものだから、きちんと生きている、と彼は一種の満足感に満たされた。

 これで彼女が口がきけたなら、生きたいのか、死にたいのか、真っ先に尋ねるのにな、そう思いながら今度は彼が、小さくもがく彼女を眺めた。彼女の疲れた眼と苦しさから乱れた髪が合間って、その姿は官能的で、甘美な匂いがした。

 

 青年がそんな彼女を見ていると、廊下からパタパタと焦ったような足音が聞こえてきたので、青年は入ってきたときのようにさっと窓から外へ出た。

 真っ白な服の女性と男性が入ってきて、急いで管を付け直している。一通り付け直すと彼女の身なりを整え、白い人たちは出ていった。

 ガラス一枚を隔てて眺めたその数分は、現実のこととは思えない光景で、まるで無音映画のワンシーンのようだった。そして部屋に戻った青年は驚いた。乱れていた彼女が清潔に横たわっているからではない。その彼女の手を見てだ。彼女の手にはナースコールが握られていた。

 あの時、彼女は鳴らしていたのだ。もしくは、ずっと握らされていたのを力んだせいで押したのか。この彼女の意思なのかそうでないのかと言う問題の答えは、青年にとって大きな意味がある真実だ。

 しかしその日の少女は目を閉じ、それ以上青年を見つめはしなかった。彼は数分彼女を見つめていたが、一向に状況は変わらない。諦め、夕日を眺めながら長い山道の帰路に着いた。しかし彼は山小屋に帰った後も、彼女がどう感じたのか知りたくて仕方がなかった。