生と死と夕焼け-EP3
少女が目を覚ました。青年は自分の笑い声はそんなにも五月蝿かったのだろうかと思うのと同時に、腐臭にでも気づいてしまったのだろうかと、違うと分かりながらも止まらぬ思考に心を赦していた。少女は目を開けても起き上がろうとはしない。体力が落ちているのだから仕方のないことだろう、と青年は彼女に近づいてみる。
「お腹は減ったかい?」
彼はとても優しい声色で問うたが彼女は返事をしない。青年は少し呆れたが彼女はずっと飲まず食わずの点滴生活だったのだからきっと平気だろう、と一人承知した。それに生憎だが食糧の備蓄もない、一人で彼女が食料を欲しがらなかったことにホッとした。
ふと青年は思いつき、小屋の外へ出た。山菜を探そう、雪も解け、そろそろ色んな生命が芽吹いているだろう、青年は慣れた手付きで手早くヨモギやフキノトウなどを採って小屋へ戻った。
食料を小さなテーブルに置くと、息もつかず次は瓶を持って小屋を出て、小屋のそばの井戸を覗き見た。乾いてはいないだろうと井戸に桶を落としてみる。確かにこちらの力に反発する重みを感じた。重いそれを引き上げて瓶に移す。澄んだ水を眺めて思う。
彼女のためにはきっと一度煮沸した方がいいだろう、彼女の体は菌に対する耐性がないだろうから。
一人ならそんな面倒なことはしない。青年は瓶に入れた水を一口口に含んだ。水を飲む時、天を仰がなければ飲めないと気付いたのはいつ頃だったろうか。青年の心臓は早くも少女を中心に動き出していた。
少し時間が経って青年が小屋に戻っても、彼女の体制は彼が出かける前と変わらないままだった。よくもまあそんなにもじっとしていられるな、そんな感心さえも生まれた。
「ねえ、君は山菜は食べたことあるかい?」
採ってきた物を洗い場まで運びながら五秒ほど待ったが返事はない。洗い場についているポンプに水を注ぎ入れて
「若い子にはちょっと味気ないかもだけど、
案外美味しいから安心してね」
続けて彼女に言った。
ギコギコと古い音を立てながらポンプを漕ぐ。また返事はなかった。青年は呆れた様子で洗い場から少女の傍に近寄り、顔を覗き込んだ。そして気付く、彼女は眠っていた。
そりゃ返事もこないや、一人で話していた自分に気付いて可笑しくなった。口角が上がって喉が小さく鳴った。そして彼は早朝ぶりに彼女の顔をきちんと見つめた。青年が少女を見つめるその表情は愛情を隠さず、恋をしているかのようだった。
青年は採ってきた山菜をざるに入れて洗うと、水をやかんに移して煮沸を始めた。青年は何を作ればいいのか悩んでいた。彼は美味しいものは好きだが、食事に対する執着がなく、料理のレパートリーは少ない。そのくせ使い方もわからないくせに調味料はなんとなくたくさん集める悪癖がある。
青年はしばらく考えて胃に優しくて喉を通りやすければいいだろう、と湯が沸いたと知らせるやかんを黙らせた。
ふつふつと煮滾る湯を冷ますために蓋を開けて少し見つめた。大きな気泡が下から上へと昇ってくる。その気泡は頂点に達すると割れ、消える。彼はその景色に、気泡の刹那な命に憧憬の念を顧みなかった。
青年はなんてことはないスープを作った。山菜を切り茹で、塩とコンソメで味付けただけの質素なものだ。素材の味を大切にしていると言えば聞こえがいい。味が悪くなるわけがないシンプルさなのであまり料理に自信のない彼には無難な選択だった。胃に入ればいいと思っていた彼は、そんな臆病な選択に己も人の子なのかも知れないと感じた。目の前にあるスープがグツグツと泡を立てて噴き出そうとしていた。
青年はスープを木製の皿によそい、煮沸して粗熱を取った水と共に、少女の眠る傍のサイドテーブルに置いた。サイドテーブルには埃のかぶったランプと読みかけの本が置いてある。青年は本を手に取りその場から少し離れて、埃を払った。読んでる最中であることを表す栞が、己の記憶のかけらのように感じた。青年はすぐにその本を本棚に直した。
「起きて、ねえ」
青年は振り向き、目を閉じている少女に声をかけた。白いシーツに包まれもうかなり昇った陽の光に照らされる彼女は、春の陽の雪解けのようだと彼は彼女の白い顔を見つめ思った。少女は髪と同じに色素の薄い、長いまつ毛を不機嫌そうに揺らしながら唸った。青年は何の気なしに肩を掴み、揺らしまた同じように繰り返した。起きて、起きて、その様子は怖い夢を見た子どもが母親を起こすのに似ている。
ついに少女も身体の揺れと鼓膜の揺れに揺り起こされて瞼を持ち上げた。青年の美しい顔が目の前いっぱいに広がるような距離感に、少女は意識が急に覚醒した様子で目を見開いた。その表情とは反比例的に、うめき声ともとれる小さな音だけが彼女の口からは漏れ出す。青年は少しその様子が愉快で、明るくスープを作った旨を伝えた。
青年は自分の作ったものが再び人の胃袋に入る日が来るとは思っていなかった。自分のため以外に料理をしたのは幼い時母親に料理を振舞った時以来のことだ。そんなことを考えながらぼんやりと少女が自分の作ったスープを口に運ぶのを眺めていた。
小さな口を小さく開けて小さな唇を少しすぼめスプーンからすすり出し小さく咀嚼する。全てが控えめで彼女の食事に対する緊張のようなものが見て取れた。青年はそんな控えめな生命活動を愛おしく思った。
「あんまり見ないで」
口にスープを運ぶ手を止め少女は囁いた。青年のしっとりと見つめる視線に居た堪れなくなったようだ。青年はやっと、悪意のこもっていない視線であろうとも人は他人の視線を拒むものだと思い出した。
「ああ、ごめんね」
「あなたが何のためにこんなことしてるのか
わからないけど、何か恩返しを求めてるな
ら早く捨てた方がいいわよ。私なんかには
何もできないのだから」
素直に謝った後の少女の早口な言葉に彼は驚いた。この子は元々よく喋る子だったのだろう、そう確信した。そして同時に、あんな風に長い間誰とも意思疎通せずに黙っていたのはさぞかし苦痛だっただろう、と同情した。
「君が何もできないと言うなら僕だって何も
できないさ」
「うそよ、現に貴方は私を連れ出し、こうや
ってスープを作ったじゃない。それは私に
はできない」
「なぜ?」
「わかるでしょう?脚がないからよ」
「それは勘違いさ」
「何が勘違いだと言うの?何が違うの?現に
私には脚がない、歩けないし、走れない。
私の生きる希望はどこにも」
ないんだ、そう言いたげな涙が流れ落ちてスープに注がれた。青年は少女の生への執着を理解した。生きると言うことへの希望、青年は少女と同じようにそれを失くしていた。しかしそれでも変わらずに生きてきた。特に腐りはせず、抗わず、ただ諦めることで心の平穏を保っていた。そんな自分を見つけるのと共に少女の諦め切れない心の芯が見えた。
「君は脚のことを愛していたんだね」
「自分の体に愛着のない人間なんていないわ」
「僕はそうでもないよ」
「貴方は持ちすぎているのよ、完全な体だけ
じゃない、美しさまで持ってる」
「美ゆえの傲慢と?」
「そうとも言えるわ」
「私にはないもの」
「僕は君を美しいと思っているよ、だから料
理を作るしキスもするんだ」
少女は少し黙った。
「貴方が私にキスをしたのは私が哀れだった
からでしょう、弱って生気のない私に同情
したの、もしくは自分より劣ったものに対
する加虐心からよ。どう足掻いたって傲慢
さの為せる技だわ」
少女の吐き捨てる言葉は酷く自虐的に思えた。悔しそうな眼が怨めしそうに青年を見つめる。青年は少し考えると真っ直ぐ少女と目を合わせた。
「僕は君に自分を重ねていた。だから君をあ
そこから連れ出したんだ。だから君を殺そ
うとした」
その言葉に少女は顔を蒼くした。
「僕の秘密を知る勇気はあるかい?」
青年は蒼くなった少女に顔を近づけ、畳み掛けるように問いかける。少女は首を縦にも横にも振らなかった。
青年と少女はそれからはこっくりと黙り込んでスープを啜ったりそれを眺めたりした。