善と鱗

のんびり静かに暮らそう

生と死と夕焼け-EP6

 水を飲ませた後、彼女の意思はわからないが、食事をさせないと薬を飲ませられない。よって青年は水と同じようにスープを口に運ぶことにした。熱いスープで口の中が爛れたら可哀想だ、と少しずつ冷ましながら口に運ぶ。

 

 水と違い零すと匂いもつくのでより慎重に食べさせる。主食となる栄養もとってほしい、と青年はマッシュポテトを口に含み軽く咀嚼し、少女に口付けた。舌で自分の口から押し出し、少女の口へ移す。顔を離すと少女の喉がなり、上下に動くのを待った。そしてそれを確認するとまた同じように繰り返す。ゆっくりと食事の時間が流れる。

 

 マッシュポテトで良かった、この時青年はホッとしていた。長生きをすると色んなことに寛容になると言うが、いくら青年でも年頃の少女に自分の咀嚼したものを口移しすることには、やはり抵抗がある。

 

 鳥の親子のような見た目であれば、受け入れられたかもしれないが、しかし実際問題、自分と少女の口移しなど、もはやそういったプレイのようにしか見えない。青年からしても心穏やかとはとてもじゃないが言えなかった。

 

 少女の熱が下がった時にこのことを覚えていたらどうしよう、そんな不安も降りかかってきた。今は意識が朦朧としているからか何も言ってこないが、気付いた時にまたこの間のように激昂されると困る。青年自身も穏やかに行きたいと思っている。しかしその反面、青年の中の人間的欲求は別の主張もしてきていた。

 

 どうも青年は弱っているこの少女を見ると人間的欲求が顔を出すらしい。熱で朦朧とする意識と虚ろな瞳、汗で額に張り付いた前髪や首筋に張り付いた細く長い髪、口づけの時微かにかかる熱い息。その全てが青年に欲と言うものを嫌という程に意識させる。

 

 食事を終わらせると、すぐに青年は薬に湯を注いで少女に飲ませ、ブランケットを掴み包まって床に身を任せた。そしてきつく目を閉じて夢を求めた。

 

 早朝に少女は目覚めた。白く霞んだ外の薄明かりに包まれた室内は世界が冬眠を始めたかのように静かだった。少女がくるりと首を回し見ると、静寂に包まれたこの世界に息をするのは床で眠る青年だけのような心地がした。

 ほっとした少女は、ふと見ていた夢を思い出した。それは長い悪夢であった。

 

 少女は夢の中である女性とお付き合いをしていた。恋などしたことはなかったが、夢の中ではそれが当たり前のように受け入れられていた。少女は昔住んでいた近所の川沿いの道を歩いていた。夏の太陽の暖かくまぶしい光に包まれて、少女は歩いていた。

 

 ふと向こう岸に女性が見えた。長い長い黒髪を携えてこちらを見ていた。少女は瞬時にそれが自分の恋人だと気付いた。しかし虚ろな瞳のその女性は、少女に気付いていないようだった。なので少女は特に気にせず家に戻ろうとした。夏の光は消え失せ、曇天、月の光に照らされた。

 

 次の瞬間向こう岸にいた女性は少女の真後ろまで来ていた。足音のしない浮遊したような無音に少女は言い切れぬような恐怖と不気味さを感じ、後ずさった。

 女性は笑顔だった。

 

 少女は弾かれたように走り出した。その体は一瞬宙を飛ぶ。ふわりとした内臓の動きに気持ち悪くなる。彼女はただ恐怖心だけで走った。そこで目が覚めた。

 

 夢の中の自分が逃げ切れたか、そうでないかは見届けれなかった。しかし、おそらく自分は逃げ切れなかったであろうと少女は感じた。

 

 目が覚めた彼女は思った。あの時手を差し伸べればよかった、と。女性と自分は恋仲だった。ならばどんな不可解な状況でも手を差し伸べ、話を聞くのが一番であったはずだ。

 

 それをできなかった自分を少女は恥じた。

 

 少女の目には涙が溜まっていた。ずっとずっと動かなかった心が盛んに動き、肉体を動かす。少女はそんな当たり前が不思議で、堪らない気持ちになる。喉の奥が閉まるのを感じた。

 

 同じ頃青年は夢を見ていた。少年がいる。少年は広い広場の真ん中で泣いている。小さな肩を揺らして泣いている。

 

 青年はその少年に近付いた。見ると、少年はお墓を作っていた。青年は少年に何のお墓か尋ねようとしたが、声が出なかった。

 

 少年はグルンと首を回して青年を見た。唐突に向けられた真っ黒な闇の瞳に青年は畏怖の感情を持った。少年は言った。

 

「死んじゃった、死んじゃった。僕の大切なお母さん。死んじゃった、死んじゃったんだ、僕の大切な弟。死ねばいいのは僕なのに、死なないといけないのは僕なのに。みんな僕を置いて死んじゃった。」

 

 歌のようにそう呟く少年の目にはもう涙はなかった。青年はとっさに抱きしめようとしたが、少年は空へと浮かび、不思議の国のアリスに現れるチェシャ猫のように消えた。

 

 魔法の粉はここにはなかった。

 

 青年は目覚めた。後味の悪い夢だと少し腹が立った。そして同時に寂しかった。わかるのだ、あの少年は姿形は違えど、自分を写していること。青年の目は彼のように淀んで闇色だということ。涙はもう流れないこと。

 

 青年は起き上がり、調理場へ向かおうとした。しかしその足はある音により動かなくなった。

 すすり泣く音が聴こえる。嗚咽をのんで、ただ静かに涙を流す音が。

 

 青年は少女のベッドに駆け寄った。少女はシーツの中で自分自身を抱くようにして顔を顰め涙を流していた。青年は夢を見たのはこのせいかと安心した。

 

 少女は青年の方をちらりと向くと視線を枕にずらす。青年はベッドに上がり、ただ少女を優しく抱きしめた。

「夜泣きなんて赤ちゃんみたいだね」

「うるさい」

 ぐずぐずと今度は声を出して泣き始めた。青年にはわかる、少女も夢を見たんだと。それが自分の半身とも言える悪夢だということも。