善と鱗

のんびり静かに暮らそう

生と死と夕焼け-EP2

 次の日も、青年は彼女を見に行った。昨日と同じ窓から覗くと、彼女は枕に深く頭を埋めて眠っていた。青年は昔物語で見た眠り姫のようだ、と本の挿絵を思い出した。

 

 もちろん、青年の見た目は王子様以上に麗しいので、彼女が眠り姫ならば、この風景は絵になっているに違いない。

 

 そう一通り空想したところで、また青年は少女の病室に入り、彼女の病弱そうで非力そうな腕に手を伸ばした。その手に手を重ねると指先は少し冷えていた。

 

 彼は想いを馳せた。彼女はきっと陽の光に当たってこなかったのだろうと。彼女の肌は本当に生まれたての赤子のように白く柔らかかった。青年もかなり色が白い方だが、彼女の方がもしかすると白い。

 

 彼はそう思って重ねた手を横に並べた。まじまじと観察をしていくと、白い手首をさらに強調させるような赤い線が目に入った。そこまで新しいものではない。よくある話だ、と青年はそれを見送った。

 

 青年が視線を少女の顔に向けた時、彼女と目が合った。

彼はびっくりして後ろに少し跳ねてしまった。

 

「起きてたなら、そう言えばいいじゃないか

 ……」

 

 彼は痛そうにこめかみを押さえながらそう言った。

彼女が口をきかないことはわかっていたけれどまさか起きていたとは……まああんな風に触れられれば誰でも起きるか。

 

 そんな諦めがついたところで彼はゆったりとした動作で、彼女のベッドにきちんと足が床につくように座った。そうしてただ見つめていると、今日は彼女も青年を見つめている

 

 眺めるだけの視線じゃなく、どこか感情があるように見えた。少なくとも青年にはそう思えた。

 

 彼は彼女の意味ありげな視線に堪え切れず、彼女の頬に手を添わる。今まで感じたことのない昂りを感じた。指先が髪に触れると、桃のような甘く唾液を誘うような香りがした

 

 不思議な引力に引きつけられた。今にも消えてしまいそうな彼女の訴えかけるような視線に、彼は抗えずキスをした。触れるだけのキスは彼女の乾いた唇を彼の脳に焼き付け、離さない。一瞬のことだったが彼女の匂いが脳を駆けて彼は心底クラクラした。

 

 パチっ

 

 次の瞬間、彼女の手が、彼女の頬に重ねた青年の手を弱々しく叩いた。一瞬重ねられたのかと思うほど弱々しいのにしっかりと怒りの音色が聞こえた。青年はなんだかとても楽しい気分になった。

 

「きちんと意思表示ができるんだね」

 彼は微笑んでいた。青年は今度は彼女の両頬を包み込んでキスをした。それは深く、きちんと愛と意味を込めて。乾いた唇を潤してあげれるように、乾いた心を潤してあげれるように。彼女に水を与えれば、彼女は自分を愛する、そうどこかで青年は思ったのかもしれない。

 

 彼女はキスをただ受けとめた。途中、顔を少しそらして意思表示をするのが青年にはなんだか嬉しくて、もう一度顔を青年に向けさせて見つめ合い、また唇を重ねた。

 

 少しづつ彼女の目や口が潤っていくのに青年は快感を覚えた。弱々しい抵抗が少しづつ見られなくなっていったので、やめて顔を見つめる。昨日と同じように乱れた髪。しかし頬は桃のように色づいて、昨日よりよっぽど色っぽかった。こんな自分の欲の高まりを感じたのはもう何年ぶりだろう、青年は高揚した。

 

 青年は彼女が欲しくてたまらなくなった。そして青年は彼女にきいた。

「君は生きたい?それとも死にたい?」

 

 右手を挙げて生きる、左手を挙げて死ぬ、と彼は声に出して言って見せた。彼は彼女が後者を選んだら、彼の好きなようにしてやろうと考えていた。もちろん引導を渡すのは彼で、でも、その前にお礼として彼女の全てをもらうつもりだった。どうせ手離すものなのだから、どう扱っても罰は当たるまい。それは悪魔的思考の契約だった。

 

 彼女は乱れた髪の間から視線だけを青年に向けて、ゆっくりと右手に視線を移した。鼻に繋がった管が白く曇っていて、彼女の呼吸を感じられた。

 

 それは彼からすれば少し残念なはずの結果だった。しかし彼は早くも別の楽しみを見出していた。

「なら、僕は君が生きれるように協力することにするよ」

 彼はにぱっという音がつきそうな笑顔を浮かべた。少女は少し、目を見開いて彼を見つめた。

 

「いらないわ」

 小さな口を小さく動かして、か細い声で言った。

 青年はびっくりした。彼女が話したことにもだが、特に彼女が、あまりにも寂しそうな声色で拒絶したことに。

 

 そして彼は感じた。彼女が頑なに言葉を発さず、意思表示をしなかったのは、青年以外の何かに対する拒絶だったのだと。そして今この瞬間、青年は少なくともその何かよりは彼女に近づいたのだ。

「大丈夫さ、僕と君はよく似ているから」

 恍惚と彼女を見つめて言う。しかしその頭は覚醒していた。

 

「君はどうして管に繋がれているんだい?」

 彼女は余り動かない表情筋を動かして不快を表現した。それはそうだろう、と青年は一人思った。青年は不躾な質問をしたという自覚はあった。

 誰だって傷について触れられるのを嫌うものだ。腫れ物には触れないのが一番なように。しかしその反対に今、彼がしているのは傷口に塩を塗るのに似た行為だろう。

 

 しかし不快を示したままの少女は、小さなため息をつくとさらに間をあけて言った。

「事故に遭ったの」

「もう歩くことは叶わないらしい」

 そう言う少女の暗く、少し震えた声が青年の心をも掴み、揺らす。

 

「そうなんだ」

 酷いことに彼は一言それだけを呟いた。こんな回答が来ることも、十分に考えられたことだ。しかし彼にはその回答に対する適切な言の葉が見当たらなかった。それは長年、人との深い繋がりを避けて生きてきていたからかもしれない。

 

 静かな病室の温度は、彼らの気持ちの落ち込みにつられてか低く下がった。

「もうずっと前からここにいるの」

 彼女は心細そうに切実に話す。彼はずっと布団で隠れていた彼女の脚に目をやった。少女は観念したかのように静かな手つきでそろりと布団を避けた。そのしぐさは妖艶で、御江戸の女郎をも思わせる。しかしそんな美しい彼女は、あるべきものが足りなかった。

 

「死にたくはないのかい」

「今はね」

 彼女の微かな微笑みは、慈愛に満ちた女神のそれを彷彿とさせた。青年は頭に疑問符を浮かべながら、つられて微笑んで返した。彼には彼女の微笑みの意味はわからなかった。

 

 そうしていると廊下から足音が聞こえてきた。二つの足音は少女の部屋の前で止まり、ドアをノックする音が鳴った。トントントン、リズム感のあるノック音はその人の、人間性や感性を思わせる。

 

洋風の扉は木をつつくキツツキのように軽やかで、心地よい音を鳴らした。それは一種の音楽のようであった。だが、その心地のよい高貴な音に想いを馳せている場合ではない。青年は正気を取り戻し慌てて窓の外へ出る。少女もまたついさきほどまでの無表情に戻って、枕に深く頭を埋めた

 

 青年には少女のその様子はとても太々しく写って、青年の持つ最初のイメージとは随分と違った。仕方なく思い青年は、窓のほんそばで草草に混じり、中の様子に聞き耳を立てた。ドアが開く。

 

「今日は調子はどう?」

 そう囁く優しい声が聞こえた。柔らかくて暖かい、橙色の声。しかし彼女の返事はない。続けて、

 

「お前は私たちの宝物だよ、どんな姿になっても」

 そう深い声が囁く。低くて固い、なのに柔らかい、その深い声もまた橙色だ。しかし彼女の返事はない。

 

 この時青年は知った。彼女が両親に生かされていることを。そして口もきかず、ほとんど動かない彼女を、生かし続けることで彼女の幸せを守っていると、信じて疑わない哀れな両親を。そして、その両親に対する少女の稚拙な反抗を。青年は己と神の関係と、この親子のそれが重なって見えた。

 

 彼女は見る限りすでに健康である。しかし彼女は抗議のために屍でいることを止めようとはしない。そして少女は青年に伝えたいのであろう、私は飼い殺しにされているのだ、と。青年には少女の望みがわかった。

 

 青年は急いで自分の仮初めの家に戻った。風を切るように走り、鬱蒼とした森を抜け、荒々しくドアを開けた。そして荷物をまとめると夜中にまた病室に戻れるように走った。彼の家は台風でも過ぎたかのように荒らされ、ただ古い木の壁が彼を見送った。

 

 上弦の月の下、森を駈ける青年はさながらヴァンパイヤのようだ。駆ければ彼の長い髪はサラサラとなびき、その風を吸収し、さらに美しく輝く。高い木から露が落ちてくれば、その露は彼の肌を潤わせ、彼の永遠を証明する。自然が在り続けるように彼は在り続ける。そんな当たり前を感じる。

 

 青年は彼女と自分は違うと理解していた。

 青年は何もしなくても死にはしない。少女はあの延命器具をつけて生きてきた。己の身を犠牲にした、彼女の命を賭けた抵抗は、両親への抵抗であり、生への抵抗だ。

 

 片脚をなくした彼女、生きるための筋力が著しく乏しくなっている彼女。青年とは逆に、他力が必要不可欠で、何かをしてもらわなければ生きていけない。そして青年が理解するのと共に、少女もきっと気づいている。

 

 今のままでは自分は生きているとは言えない。息をした屍だ。自分が選んだことではある、しかし本当にこのまま自分の人生を終えていいのか、彼女は考えている。そんな彼女の葛藤が青年にはわかった。だから青年は彼女を生かしてあげなくてはならない。

 

 病室の窓に着いたら青年はまず窓を小さくノックした。触れたガラスは冷たく氷のようだった。昼間は暖かくなったが、夜はとても冷える。砂漠の地域の昼夜の寒暖差に比べれば大したことはないが。指先からシクシクと刺すような冷気に指が縮むようだった。

 

 シンと静まり返ったこの森の中では、小さな音にも敏感になる。彼女も例外ではない。ノックの音に、彼女は起きていた。青年は返事はないが窓を開け、中に入り少女の顔を覗いた。目を開けている様子に平常心で臨んだ。

 

 青年は返事をすればいいのに、とボヤいたが少女はそれを無視した。視線だけを青年の方に向けている。その視線はあたりが暗いせいか光っていて、まるで真夜中に獲物を狙う猛禽類のそれであった。昼間とは全く違う少女の印象に青年は飲み込まれそうになった。しかしそれを理性で抑えて青年は本題に入る

 

「君は今生きてる?それとも」

 死んでる?そう聞く前に少女は少しだけ首を動かした。そしてまたあの鋭い目を真面目な顔の青年に向けて

 

「生きてはいない、死んでもいない」

 と、一直線に言い放った。青年にすればわかっていたことだった。

 

「生きるって何だろう」

「行けばわかるんじゃない?」

「君は何故生きていないし死んでもいないんだ?君の中での定義ってなんなんだい」

 青年は普段より少し早口で言い放った。それは本当に少女に対して問いてるのか、それとも自分に対してなのかは青年にもはっきりとはわからなかった。

 

 少女は青年の怒ったような焦ったような問いには答えず、ただ瞳を伏せて青年の叫びに耳を傾けた。

「生きてればわかる」

 

 彼女は青年がしようとしていることもわかっていたのだろう、それは青年が彼女をわかったように。

 青年は少女のベッドから薄いシーツを抜き取り、彼女の身体に巻いた。青年はいつかの街でいつかのハロウィーンの時、子どもたちがシーツを被って仮装していたのを連想した。シーツから小さく顔を出す少女の額に軽いキスを落として、青年は彼女の脇と臀部付近に腕を通し抱き上げた。見た目の通り彼女は軽かった。身体のパーツが人より少ないせいもあるのだろう。何よりも筋肉が全くと言っていいほどない。青年は彼女の顔を覗き込んだ。頭まで被ったシーツから覗く瞳は、どこか潤んでいた。

 

「行くのは今度にするかい?」

 青年は尋ねたが彼女はそれには答えず窓を見つめた。気が強い方らしい。青年は彼女に従って窓から出た。彼女の荷物はない。

 

 青年はずっとずっと森の中を走った。草木の湿った匂いが肺を満たす。蒼白い月光に照らされて走る青年と少女はハムレットの亡霊のようであった。

 

 その一方青年は白いシーツに包まれた少女を抱き抱え走っていると、赤ずきんちゃんを飲み込んだオオカミのような気分になった。彼女はさながら白ずきん。今から向かうのは悪いオオカミの胃袋。なんて、青年を例えるものとしては品がない。

 

 しかしこの時だけは、青年は略奪という下品な高揚感に呑み込まれていた。彼女を閉じ込め飼い殺す両親から、青年はこの駒鳥を外の世界へと助け出した。その結果、彼女には苦痛が伴うかもしれない。

 しかしそれは青年の中の保障内容に含まれている。例え彼女が外の世界に耐えきれず死にたくなったなら、その時こそ青年が引導を渡し、そして彼女を偲ぶのだ。青年がしてほしいことを、彼女には惜しげも無く与えようとそう決めていた。

 

 やがて時刻は朝となり、白く輝く太陽が青年たちの進む東から昇る。目の前が明るく照らされ青年は眩しさから顔をしかめた。太陽から視線をずらすため見下ろすような形で少女の顔を見れば眠っている。その顔には疲れが滲んでいて酷く可愛そうで妖艶だ。

 

 病室の清潔な真っ白のシーツに包まれた少女は朝日を浴び、消えるように透けてとても神秘的だ。陽の光に透けた毛の色や朝日に霞んだ様子からはキツネの嫁入りを思わせる。青年は胸がむずがゆい思いをした。

 

 少女を抱いた青年は一晩中走って、ある山小屋に辿り着た。そこは青年がずっと前に一度住んでいた小屋だ。

 一人住まい前提の小さな小屋ではあるが、別邸と同じく人里離れた山の中にあるので、基本的には誰も近寄らない。つまり今回のようなお忍びの時には都合のいい場所で、またナーヴァスな気分になった時にもうってつけの場所だった。

 

 しばらくここで休んで遠い街まで移動しよう、そこで新居を構えればいい、青年は一人でそう構想しながら小屋を物色する。埃は被っているが潔癖なわけではない彼が居座れないことはない。いくつか缶詰が残ってはいたが、案の定消費期限は切れていた。

 

 少し埃を払った後、小さなベッドに彼女を寝かせると、この汚い小屋が青年には、ローマにあるルネサンス様式の古く美しい教会のように、神聖な場所に思えた。青年から見るこの少女は人を逸脱していた。病的に白い肌や細い手足は気が狂うほど美しい。同時に青年は自分が酷いことを思う生き物だと嫌気がさした。

 

 彼女が目覚めなければいい、彼女のこの美が永遠であればいい、そしてそれが自分だけの瞳に映っていればいい、彼女と出会ってから、あっという間に青年の思考はそんなことに支配されていっていた。とんだ強欲さだ。青年はこの感情を知っている。エゴだ。忌み嫌う感情であり、彼をヒトならざるものにした誰かの感情である。彼はそんな自分が可笑しかった。笑うしかない、そう一人でクスクスと笑った。

 

 自嘲の念はその身を蝕む。誰もが知っていることだ。もちろん彼も。それは内臓がドロドロと溶けてしまう感覚に似ている。彼は自分の中にある重いものが溶け、常温の水銀のように波打つのを感じた。