善と鱗

のんびり静かに暮らそう

生と死と夕焼け-EP12

 

「着きましたよ」

 従者が馬車を止め、ドアを開けてそう伝える。青年は礼をし、馬車から降りて両手を広げた。少女は迷わずその首に腕を回し身を預ける。青年は白いスカートの少女をそのまま横抱きにして歩き出した。

 

 馬車が到着していたのは辻馬車の待機場所となる駅前であった。青年は少女に自分の両親がいたら教えるようにと言い聞かせて抱きしめた。そして今度は背中に背負って歩き出す。きっとまだこの街にいる。そんな確信を背負っていた。

 

 少女にとってはこの時間は幸せの中にある憂鬱な時間であった。そして青年と出会ってからの時間は不幸の中にある幸せであった。青年が少女を帰すことを望んでいることは少女にもわかっていた。そしてそれが本心でないことも。

 

 少女は辛いことに両親を素早く見つけてしまっていた。両親の乗る馬車は家の物で、まさか辻馬車の集まる場所にいるなんて少女は思ってもみなかった。

 

 少女は悩んだ。言うべきか、否か。しかし答えはもう出ていた。言わなくとも遅かれ早かれ両親とは向き合わなくてならない。それは生きている限り付きまとう宿命だ。ならば青年に勇姿を見せてやることが、青年への恩返しの一つとなる。青年が喜ぶことは少女にとっても嬉しい。

 

「降ろして」

「え?」

「いたわ、行ってくる」

「支えていくよ」

「あなたにはここから見てて欲しいの」

 

 少女のまっすぐな眼差しは、自分を励まし、出会い出発した時のあの眼差しと重なり、青年を惹きつける。

 

「いってらっしゃい」

 青年は微笑み、そのまま屈んで少女の片脚を地面に送った。

 

「いってきます」

 

 少女は微笑み片脚だけで進む。日本の妖怪の唐傘おばけのようで、その様子は街の人の視線を奪った。人々は怪訝そうな表情を浮かべ、ひそひそと話し出す。その声は吐き気がするほどに気持ちが悪かったが、少女を見ると、青年はこの場から動くことを許されなかった。

 

 少女は進んだ。両親に向かって一歩一歩とジャンプを繰り返す。筋肉のほとんどない脚はプルプルと震え、数メートルもすれば苦しく息も上がった。周りの視線が痛くて涙が出そうにもなった。人の視線にここまで少女が晒されたのは初めてだった。彼女は自分の奇形を改めて認識し、そしてこの世で生きていく必要性を感じた。

 

 男女は馬車を降りて休憩をしていた。駅前のカフェテラスでの紅茶は今までのティータイムで一番味気なかった。二人の男女の間には重い沈黙が流れ、二人は互いに喪失感に苛まれていた。

 

「神よ、なぜ我々にここまでの試練をお与えになるのですか」

「偉大なる神よ、なぜ私たちが一生懸命になって守った子をまた奪うのですか」

「神よ、あなたはなぜ我々に与えては奪うのですか」

 

 二人は祈り、涙を飲む。愛する娘に告げられた、全くの準備不足の突然の親離れと別れは二人を絶望の淵へ追いやっていた。

 

 二人はあくまで完璧な親であるつもりであった。夫婦間は仲が良く、娘を第一に考え、大切に、愛情をたくさん与えて育ててきたつもりであった。だからこそ少女の言葉は衝撃的で、理解の追い付かないものであった。なぜ、あの子は帰らないと言ったのだろうか、なぜ生かさないでほしかったなどと言ったのだろうか。それは喉につっかえた小骨のように疑問として残った。

 

 二人の冷たく青色なティータイムは遅い時間をゆっくりと押し進めていく。ふと、周りでひそひそと話す声が聞こえてきた。

 

「あの子おかしいわ」

「一人かしら?脚がないわよ」

「気味が悪いわね」

 

 隣でお茶をする貴婦人のような装いの女性たちもそう言い出したものだから、二人も辻馬車の多く停まっている方へと目を向けた。

 

 二人は目を疑った。ずっと動かず、話もせずに、ベッドで横たわっていた子が自分一人で進んでいるのだ。

 

 不安定な片脚での歩行は両親の足を考えるより先に動かしていた。

 

 駆け出した。乱雑に置かれ横になったティーカップからは、赤茶色の綺麗な紅茶が流れ白いテーブルクロスを染めた。そして二人は少女を抱きしめ、崩れ落ちた。二人は少女を包み込んで膝から崩れ落ちたのだ。抱きしめた少女は息が上がっていてとても疲れているように見えた。

 

「どうしたの、ここまで一人で来たの?」

「いいえ、すぐそばに彼がいるわ。ここまで送ってもらったのよ」

「一緒に帰る気になったのか?」

「いいえ、なってないわ。ただ、話をしに来たの」

「話?」

 

 この言葉は青年にも聞こえており、青年は少女が帰らないと言ったことを嬉しく思い、そしてそんな自分を内心叱責した。

 

 一方二人は唖然としたが、ずっと道端に座っているわけにはいかないから、と少女を立たせ、馬車に乗るように誘った。しかし少女はそれを断り、ここで聞いてほしいと頼む。

 

「私は不信感を持っていた。こんな体でなぜ生かされているのか、あなたたちがこんな欠けた私を生かす理由は何なのか」

 

 少女は自分の胸の内を二人に話すつもりであった。少女はそうすることが最後の両親への親孝行だと信じた。

 

「私、わかるの、二人にとって私が一番じゃないこと。二人の愛の証としての私の肉体が求められていること。この血を二人が求めていること。」

 

「わかったの、それに拗ねていたわ。自分の意思とは違う生きると言う選択に疑問を抱いたわ、苦しむと決まった生を全うする理由が見つからなかった。でもこれは私のエゴだった。彼に言われて気づいたの」

 

 少女は一人で立ち、易しい生を求めた自分を恥じ、両親に話した。視線は斜め下を向きながらも時折二人の顔を盗み見た。二人の表情は陰っていた。その様子に胸が痛んだが少女には話すしかなかった。

 

「本当はずっと目が覚めていたわ。十年近くただベッドでぼうっとしているようにしていたけれど、頭の中はぐちゃぐちゃといろんなことを考えていた。そんな中でたくさんの憎しみも溜まったわ。わざとらしい愛の言葉にもうんざりした。」

 

「それも今になれば無駄ではなかったと理解できる。あれがなければ私は青年と出会い、通じ合い、そして人間らしく生きることはできなかっただろうから」

 

 そう言って言葉を途切れさせた少女はちらりと後方の青年を探した。そしてその姿を視界に捉えると、また両親に向き直した。すると母親が重く口を開く。

 

「あなたに意識があったことを私たちは知っていたわ。先生たちが傷や事故の怪我はもう大丈夫、あとは気持ちの問題だ、と仰られていて、なおさら私たちはあなたに愛を囁いたわ。それがあなたの不信感を煽ることになるとは思ってもみなかった」

 

 母親の悲痛な叫びのような言葉は少女の胸を揺さぶった。

 

「確かに、私たちは自分の娘としてお前を愛している。しかしお前が娘だから、愛しているのかと言われるとそれはしっくりとこない。ただお前を愛していたんだ」

 

 父親の深い声は春の日和の深海のようで心が落ち着いた。それは、本当に愛されていたのかもしれない、そう感じるほどに真剣で優しい声色であった。

 

 少女を父親は抱きしめた。それに母親も重なった。往来の多い道の真ん中であることも忘れて深く抱きしめあった。両親な目には涙が浮かんでおり、少女の頬にはついさっき流れたような涙のあとがある。

 

「私、きちんと生きるわ。彼と一緒にいろんなものを見るの。きちんと進むわ。たまに手紙だって書くわ。だから心配しないで」

 

 少女の言葉に二人はうん、うん、とうなづいた