生と死と夕焼け-EP13《終》
気持ちの落ち着いた頃に、少女は両親に肩を借り、青年の元へ戻った。両親は青年を前にすると砕けていた表情をピシッとしたものに直したが、すぐに少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「娘を頼みます」
「いいんですか」
「娘がそれを望むのなら」
「いい親御さんです」
「やめてくれ、殴りかかってしいまいそうなんだ」
そこで四人は笑い、両親と青年は握手を交わした。
「僕はベルトーン。お二人からこの子をお預かりします、命の保証はないですが、彼女を幸せにしてみせます」
「ベルトーン、君は変な奴だな」
「娘さんにはかないませんよ」
そう言い、また笑った。青年は少女に肩を貸して、馬車に乗り込む。二人は切なそうに肩を寄せ合い馬車に乗り込んだ二人を見つめる。少女も名残惜しそうにドアの小窓から二人に手を振った。
「帰らなくてよかったのかい」
「いいのよ」
「僕は人間じゃないかもしれないよ」
「今、あなたが人間じゃないなら私が人間にしてあげるわ。人間の定理ってなんだと思う?」
「キミってやっぱり変わってる。」
青年は笑った。
「人を愛したり、怒ったり泣いたり。感情を多く持つことじゃないかな」
「あら、それならもうあなたは立派な人間じゃない」
「え?」
「あなたは私の見る限り表情豊かよ、怒ったらすぐにわかるし、楽しい時はよく笑うわ。強いて言うなら涙は見たことないわね」
冷静に思い返せばその通りであった。この少女と行動を共にするようになってからの青年の心は驚くほど目まぐるしく働くようになっていた。
「そういいえば初めて見た時からきみは他人のような気がしなかった。ずっと今まで何も感じずに生きてきたのに、きみとあってからは不安に心が揺れたり、ちょっと怒ってみたりと心が忙しかった」
「言ってしまうと私もそうよ。出会ったすぐだったのに、あなたに惹かれてた。心が忙しかった。これも縁じゃない。私はあなたを幸せにしたいの」
「僕は君にひどいことをしたよ」
「済んだことよ」
「僕はきみから見れば亀や鶴、仙人のように年配だけどそれでもいいの?」
「そんなあなただからいいのよ」
「なら、このきみにもらった心は、きみが死ぬ時までずっときみに捧げ続ける」
「それはまた不確定な誓いね。いいわ、私は死ぬ時、あなたと一緒になれるように努力することにするわ」
青年の最後の重くて固いドアが、やっと開けた。青年は少女の言葉が嬉しかった。
しかしながらそれでも青年の運命は変わらないだろう。
やっと、一緒になれたのに、少女は自分を置いて登る、その事実は変わらない。
「大丈夫よ」
少女は変わらず、しっかりと青年を見つめて言った。
「あなたは私と一緒にいて人間になったんだから、私が登る時、あなたも一緒に登れるように私が引っ張ってあげる」
「私もあなたも同じ誕生日を過ごしたんだもの」
そういうと、少女は青年に元気な笑顔を見せた。何十年先のことかはわからないけどね、そういう彼女は本当に綺麗だった。以前の青年ならこんな小娘の言うこと信じなかった。しかし今は、君だけは違うから、君に生まれ変わらせてもらったから、そう青年はその笑顔を信じた。
青年はこの時のことを今だに色褪せず覚えている。人生で一番の喜びの瞬間だった。
それから、青年たちは何十年の時を共に過ごした。少女は強い女性だった。本当に長く生きてくれた。青年の一千年の中では本当に短かったが、それでも少女は長く生きてくれた。そして少女との別れが刻一刻と近づいているのを青年も感じている。青年は己の中に込み上げる何かが出てきそうで出てこなくて気持ちが悪い思いを続けた。
彼女はここ数ヶ月ベッドから出ていない。窓から見える景色を毎日毎日ぼんやりと眺めている。青年はそんな彼女を見つめ続けていた。
「老いるというのは幸せかい?」
青年の問いに彼女は答えない。ただ窓の外をぼうっと眺めている。いや、見つめているのかもしれない。青年もつられて外に視線をずらした。青い空の下に、太くて背の高い木が一本立っている。ピンク色の花をたくさんつけて、窓の世界の主役になっている。しかし青年にとっての主役は窓の内側にいる彼女だけだ。彼女に届けばいいと思って、青年は彼女を見つめる。
ふと、ベッドの横の棚に置かれた花瓶が目に入ったので、水を入れ替えてやろうと青年は椅子から立った。植物の入った花瓶は頻繁に面倒を見てやらないとすぐに駄目になるものだから困る。
「すぐに戻るからね」
彼女の肩に手を置いて囁いた。彼女は青年を見ない。青年は踵を返してドアに向かった。廊下は彼女の部屋より少し暗い。また春にポンプから汲み出す水はどうしてこうも冷たいのだろう。
彼女のいる部屋のドアはいつもニスが塗りたてのように綺麗だ。青年は花瓶を手に彼女の部屋へのドアをくぐった。彼女は窓からドアに視線を移して、青年を見ていた。ずっと青年を見なかった視線が彼に向かっている。じっと、見つめてくる。
「あなたはお花がやっぱり似合うわね。お庭で育ててた花ね?アジュガにアセビ、それにアネモネ。アから始まる花ばっかり」
彼女はそういってくすくすと上品に笑った。そして付け足すように、好きな花ばかりよ、と言った。青年はずっと己の目の前にいた老婆はこんなに美しかったかと感嘆した
。青年は声が出なくなり、やっと絞り出したと思ったら、
「ずっと桜になんか焦がれてちゃってさ、よく言うよ」
と悪態をついた。言いたいことはもっと山ほどあるのになあ、そんな無念がコンマ一秒の脊髄反射のように巡る。今はなんだか苦しくて言えない、そんな心持ちがした。彼
女は青年を手招きして呼んで、耳元で囁いた。
「ずっとあなたの夢を見ていたの。桜はまるであなたのようで」
青年は今までの仕打ちの全てを忘れた。青年は彼女の手に自分の手を重ねて、ただ彼を見つめる瞳を見つめて話した。青年は目を見つめて会話ができる喜びを実感した。
しわくちゃの手と少しあかぎれた手が重なった時、彼女は悲しそうな顔をした。言いたいことはわかった。
「僕の手、前に見たときよりずっと綺麗でしょう?これが人を愛した人間の手だよ」
やっと手に入った、そう言って笑って見せた。彼女ははにかんだ。長い間ごめんね、と言われた青年は、長いなんて一千年生きてから言ってよ、と返した。本当は寂しかった、なんて言わない。青年の一千年に比べれば、流れ星の流れるように一瞬の出来事だったから。しかしながらそれでも、彼女の夢はとても長かった。少なくとも、毎日毎日、日が昇っている間はずっと青年の夢を見ていたということだ。青年は夢の中の自分が羨ましくなった。
「あなたと出会ってからのことを夢で見てたのよ。あなたと出会ってからは、全てがあっという間だった。あなたは変わらないのに、私がこんなになるまで一緒にいてくれたのね」
青年はより深く彼女の指と自分の指を絡ませた。
「こんな私の傍になんて居たくないでしょう」
「君は綺麗だよ」
いつまでも。わかっているくせに。心配そうに言うから僕だって心配になった。
「君は他の何よりも綺麗だ。僕よりも」
青年は彼女をきつく、抱きしめた。痛い、と言うから少し緩めて、それでもまた抱きしめた。
「はたから見たらおばあちゃんと孫ね」
そう言ってからかう老婆に青年はキスをした。少しカサついた唇に、出会った時の桃の香を感じた。そして何かが満たされていくのを感じた。老婆は少し悪態をついたがそれが照れの裏返しだということは青年には手に取るようにわかった。
「桜は君みたいだね。優雅な女性」
青年がそう囁くと、彼女は怪訝そうな顔をして言った。彼女はゆっくり桜へ視線を移してきっぱりと言い放った。
「あれはあなたよ。だって桜の花言は」
「精神美」
その口調はあの時のようにはっきりとしていた。彼女はまた青年へ視線を移した。そして彼を見てまたはっきりと言った。
「やっぱりあなたは桜ね」
僕は、と言いかけてやめた。彼女に言われたらそんな気がした、いや、そう思いたかった。青年の堕ちたはずの心が、清いと言われると震えた。
「君と一緒に登れるかな」
「もちろんよ」
登る時はあなたを連れて行くって何十年も前からずっと決めてるもの、そう言う彼女の清々しく透き通った声色に目頭が熱くなった。
「君を愛しているよ。この世の何よりも」
こんな言葉じゃ足りないのに。この一千年の中で感じた中の一番は君だ。置いていかないでほしい。ずっと傍にいたい。こんな言葉じゃまだ表せない。君に伝えるためだけの新言語が必要だ。愛の言葉の新言語が。青年の頭はゴチャゴチャと積み木が崩れ混ざるように混沌としていた。
「私はあなたと一緒に人間になれてよかったわ」
「君は元から人間だったさ」
気の利いたことなんて言えない。彼女は微笑んで言った。
「私は人間に生まれたのに人間じゃなかったわ。私は愛することを全然知らなかった。他人を認めることも自分を認めることもできなかった。あなたと出逢って生まれ変わった心地だった。だから私の誕生日は、あなたと出逢った日よ」
彼女はここ最近では珍しく随分と饒舌だ。
「だとしたら一つ間違いがあるよ。私の誕生日、じゃなくて “私たち” の誕生日さ」
青年の言葉に彼女はにっこりと微笑んだ。それは少女だったあの頃を思い出すような輝きだった。ずっと無表情な彼女を見つめ続けていた青年はそんなきらめく笑顔を見ただけでめまいがするほど愛が溢れクラクラした。君を愛している、と身体中の遺伝子たちが、赤血球たちが叫んだ。青年はついに尋ねた。
「もうお別れなの?」
彼女は少し寂しそうにまた笑って、そうね、と返事をした。彼女の瞳に映った青年は今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。彼女の手招きに誘われて、花の蜜を求める蜜蜂のように青年は彼女の腕に抱かれた。彼女の体温を確かめるように深く潜り込んだ。彼女はすごく幸せそうに笑った。
「これで登る時、あなたを忘れずに登れるわね」
青年の熱くなった目頭が彼女の濡れた胸に冷まされる。青年の熱い目は熱を上げていった。このままでは目玉が解けてしまう。彼女の胸に顔を擦り付けて冷まそうとするけど熱は下がらない。愛してるわよ、と静かな声が頭の上から聞こえた。僕も、と言いたかったのに肝心な時に声が出なかった。青年はうめき声をあげて返事をした。本当に子どものようだと自分でも思った。君を愛する男としては未熟過ぎただろうか、青年は初めて自分を未熟だと思えた。そして一千年も生きた癖に、と自嘲した。
青年を慰めていた彼女の心の臓は活動をやめ、彼女の体温はどんどんと下がっていく。青年を抱きしめる腕がだらりと力なく落ちたから、彼はそれを拾ってもう一度彼の肩に乗せて向き合った。顔を付き合わせて、これでもか、と見つめているのに。閉じた目は開かない。でも、それが人間だ。青年は長く感じてこなかった人の死への動揺を感じた。やり場のない想いに胸が潰れて息苦しかった。
君に、僕は君のせいでこんなに苦しいんだって文句を言ってやりたいのに、君はもうここにはいない。僕の行けない場所までもう行っちゃったのかな?もう、僕の声は聞こえないのかな。
「石の年齢って知っているかい……」
当然、問いの答えはない。
目玉だけじゃない、脳みそまで解けて、目や鼻から垂れてくるんじゃないかと思う。今はもうどこが熱いのかも青年にはよくわからなかった。
「本当に、人間って嘘つきだ」
ポツリ、と言の葉が溢れ落ちる。
「ずるいよ、一人だけで登るなんて」
ずるい、なんていつ振りに言っただろう。もう記憶にない程には言っていない。
「夕焼けが眩しい・・・」
焼けた空は霞んだピンク色で、桜の花たちを飲み込み、空全体が大きな桜の木のように見えた。そんな大樹が雲の隙間から漏れ出す光の柱を包み込んでいた。
青年は久々に光を見た。