善と鱗

のんびり静かに暮らそう

生と死と夕焼け-EP5

 深い森を抜け、小さな港町の見下ろせる高台にたどり着いた。飛び越えない様にと巡らされた黒い柵と、景色を眺める人間の憩いの場になるべくして置かれた優しい色のベンチが太陽の光を浴びて佇んでいる。そこから眺める街の風景はモネの描く絵画の一部のように鮮やかで、淡くて、遠く、幻想的だった。

 

 街の道や壁に敷き詰められた赤煉瓦は茶色ぽく色を変えて、人々の服に白という色はなく、クリーム色ぽい布たちが揺れている。店の上に張られたテントは赤く錆び、ふくよかな女性がエプロンの端で指を拭いて店頭に並べられた果物に触れる。豪快に笑うバイキングのような大男が魚を売り、癖毛の目立つ小さな男の子が犬と共に駆けている。とても平和で幸せに見える街だ。

 

 しかしこの街は過去に一度戦争に燃えた。そしてちょうどその頃、青年はこの地を去った。当時、徴兵に巻き込まれないためだと陰口を叩いた者もあった。我が子は死んだのにと呪う声もあった。しかし青年が例えあの戦争に赴いていたとして、亡くなった彼らと同じようになれたか、戦力の足しになったか、そんなことは誰にもわからない。青年はその古き呪怨と軽い風の吹く港町の風景とのそのコァントレリーコンセプトに頭痛がした。

 

 一度燃え落ちた地も年月を経ればここまで回復するのだという事実は尊いものだ。今ある街の風景や色のくすみはこれから先のまだまだ続く繁栄を表すようだった。彼らがここで止まることは決してないだろう。失くし、再生し、それを育てる。何かを生み育てるのには一度全てを破壊するのが最も手っ取り早いと誰かが言っていたのを思い出した。

 

 海風が頬を撫でる感覚にしばらく身を投じていた青年は海鳥の鳴く声で古き記憶から現実に引き戻された。青く遠い空で翼を広げ飛ぶ鳥はどんな心地だろうか、そんな子ども染みた思想が浮かんだ。

 

 青年は高台から街へ向かい下り始めた。夢想しているような足取りで赤い煉瓦の道を踏む。青年は魚や肉、形のいい葉物野菜、それに主食となる芋やパンを持てるだけ買った。

 

八百屋のおばさんは気前がよく青年の顔を見るとこれもこれもとおまけにしてはいささか嵩高い手土産を持たせてくれた。青年は両手一杯に籠や袋を抱えてまた森の中へと足を進めた。

 

 少女は怒った。それは青年からすればかなりと怒っていた。

「嘘つき」

「嘘は言ってないよ」

「嘘 “は ”と言ってる時点であなただって後ろめたいと感じたんでしょう?」

「君は随分上げ足を取るのが上手だね」

「それほどでも!」

 

 少女の怒り口調につられると喧嘩になってしまいそうな会話だった。青年は決して悪意から少女を置いていったのではない、少女を守ろうとしてのことだった。

 

 しかしそのことを少女自身に伝えれば、彼女は己の無力と弱さにまた苦しむだろう。青年は少女を苦しめたいわけではない、むしろなんでもさせてやりたくてあの場所から連れ出した。なのに今の自分の心持ちは彼女の両親とニアリーイコールだ。青年はそんな自分が非常に愚かに思えた。

 

「君に街に出ると伝えなかったのは悪かったよ。

 ただこれだけの食料を買いに行くのに

 慣れた僕一人の方が効率的だったんだ」

 彼女が傷つくかもしれない、そんな恐怖にも似た感情を抱えながら、青年は真実とかけ離れない言葉を見繕った。この様子ではこちらの出方に次第で、夕ご飯を食べてもらえない場合も考えられる。それでは本末転倒だ。

 

 少女は不機嫌から回復することなく少し黙って、

「じゃあ次は私も連れていって」

 とぶっきらぼうに言い放った。そのむくれた頬には青い血管と赤い血潮が見て取れた。

 

青年は少し困ったがその困った事実を隠してうん、と短く答えた。

「じゃあ、ご飯にしようか」

 そう言葉を続けて台所へ向かった。青年自身逃げたと感じるが、少女の目にどう映ったのかはわからなかった。

 

 蒸かした芋でマッシュポテトを作った。青年自身主食を食べるのはいつぶりだったかわからない。付け合わせにソーセージを二本焼いた。籠から葉物野菜を取り出し水にくぐらせ、五枚ほどちぎり一皿ずつに盛り付けた。一つの皿に全て盛り付けて、マッシュポテトには塩と胡椒を散らした。胡椒は贅沢品と言われることも多いから、きっと少女は食べたことがないだろうと青年は考えた。最後に固形物を食べたのはまだ齢が “つ” で数えられる歳の頃のはずだ。そんな子どもに贅沢品を強いて与える親は少なかろう。

 

 しかし、青年のそんな予想は外れた。少女は胡椒を齢が “つ” の時から食していたし、それを今まで忘れずにいたのだ。青年はこれに愛と名付けるべきか、愚かと名付けるべきか悩み、少女の表情を見て前者とすることにした。

 

「美味しいかい?」

「もちろんよ、これが自分も一緒に買いに行った物であれば今の五倍は美味しかったでしょうけどね」

「君は口が減らないね」

「当たり前よ、まだ怒ってるんだから」

「また今度、一緒に行こう」

「絶対よ」

 

 そしてそんな約束を果たすべき日は思っていたよりもずっとすぐにやってきた。少女が熱を出したのだ。薬となる薬草を買いに行かなくてはならない、そのためには少女を医者でも、薬草師にでも診せなくてはならない。しかしこの小屋のことは知られたくない。そうなればもう少女を街に連れて行く他に術はないのだ。

 

 息苦しそうな吐息が少女の口から漏れている。呼吸のリズムは不規則で、酸素を求める金魚鉢の金魚のように口をパクパクとさせて息をしている。

 

 きっと少女にとってもこんなに苦しいのは初めてだろう。ずっと病室にいた彼女からすれば、今の彼女を取り巻くこの環境は劣悪極まりない。それに一緒にいるのがもう何百年も生きた青年で、長い生で鈍感になった彼の感覚の元では十分に行き届かない気遣いが多くある。室温、食事の栄養バランス、水質、服飾、彼にとってはどれも些細でどうでも良い物だった。青年も彼女にとってはそうではないと頭ではわかっていた。

 

 しかし過去を悔いてももう遅い。懺悔の余裕はない。今この瞬間に苦しんでいる少女を青年は助けなくてはならない。病室から持ち出したシーツにまた少女を包み、収納からかなり埃っぽい毛布を一枚引っ張り出した。荒い呼吸の元この毛布では更に辛いだろうと青年はそれを念入りに風に晒し、長い手を鞭のようにしならせ叩きつけた。キラキラと陽の光が差し込んで、舞った埃も光った。

 

 外は暑いかもしれない。しかし青年は遠い昔に母親に言われた言葉を思い出していた。

「熱が出たら嫌でも体を温めなさい。冷やしてもいいことなんてないんだから」

 遠い昔のことなのに、まるですぐそばに母親が立っているかのように青年はその体温を感じた。

 

 青年はしっかりと叩いた毛布をシーツの上から彼女に巻きつけた。長い毛布で彼女の足までしっかりと覆われている。少女は息苦しそうに身をよじったが、青年はそれに一言謝り、抱きかかえ、小屋を出た。

 

 青年は走った。獣道すらも駆け抜けて港町を目指した。青年の持つ免罪符は少女を一刻も早く救うことだけだった。草木を掻き分けて進む道は少女にとって酷だろうか、不安は尽きない、しかし逸る気持ちには抗えない。普段は一時間半かける道のりを三分の一で駆け抜けた。

 

 港町を見渡せる高台に着いた。青い空とそれを反射した青い海は、速くなった鼓動と上がった熱と相まって真夏のような錯覚を与えた。少女は自身の熱と太陽から吸収した熱で汗ばんでいる。青年は港町を高い位置から見下ろして急に冷静になった。

 

 彼女をどこの医者に見せよう。医者というものはいつでも煩わしく、親切なふりをしては無知な者から搾取する詐欺師のようなものだと青年は記憶している。それは偏見かもしれないが、当時の街にはそんな医者が横行していた。

 

 薬草師の方が古風な分青年自身馴染みがある。しかし万が一症状が重く入院の必要があった時に二度手間だ。青年は決めかねた。

 

 しかし今悩んだ内容は自分の目線のものであることに気づいた青年は、少女の目線について考えた。少女は仮に入院となった時大人しく入院を受け入れるだろうか、ずっと病室に囚われていた彼女にとってそれは屈辱的なことなのではないか。

 

 青年は手近な街の外れの薬草師を訪ねた。クリーム色のコンクリートの外観に焦げ茶色のテントが頭上に張り出されている。中に入ると店内は薄ら明るく、薬草師は白い漢方服のようなものを着ている老婆だった。

 

「おやまあ、えらい別嬪さんが来たんねえ」

 老婆は訛りの強い言葉で来客を出迎えた。

ゆっくりとした動作で青年に掛けるように指示し、自身は店の奥のカウンターでお茶を置いた。青年はそんなゆっくりとした動作にとろくささを感じて早口に少女の状況を説明した。老婆は話を聞いているのか聞いていないのかわからない様子でええ、ええ、と相槌を打ち、話し終わったところで、老婆は青年に抱えられた少女のそばに寄り、熱を測ったり喉の奥を見たりとしていた。また少女に体調を尋ねたりと頭痛や吐き気などがないかなどの簡単なカウンセリングをし、また店奥のカウンターに戻っていった。

 

 老婆はそばにあるすり鉢を引き寄せ、カウンター奥の棚にある干した草や木の実なんかをすり合わせた。

「七日分や、これに湯を注いで一日三回飲ましい」

 そう言って老婆は白い紙に包んだ薬を青年に渡した。

「おいくらですか」

 薬がもらえて落ち着いた様子の青年は老婆に尋ねた。白い包みは軽いものが入っているはずなのにずっしりとした重みがあった。

 

「いくらやったら出せるん?」

 老婆の逆の問いに青年は驚いた。

「そこまで裕福でないのであまり期待しないでください」

「ちゃうよ。お代はいつもお客様の満足度と

 比例させてもろてるんさ」

 つまり後払いでいいよ、と老婆は軽く笑って見せた。老婆の顔の目尻や目の下のしわがより深く刻まれる。

 

「……よくこんな余所者にそのようなことが言えますね、ここにお代を渡しに帰らないかもしれないでしょう」

「そんな方もたまにはいらっしゃるわねえ」

「それではあなたの生活だって危ないでしょう」

「お生憎様、こんなもんボランティアみたいなもんやからなあ、むしろお代を渡しに来てくれたら儲けもん、くらいの気持ちでおりますんよん」

 

 なんて変わった人だろう、青年にはそんな言葉しか頭に浮かばなかった。青年が病に罹っていたような時代でも確かに薬草師は変わり者が多かった。それでもこんなに欲のない人もいるものなのかと青年は驚愕した。

 

 これまで、青年に与えられる優しさは打算的なものばかりだった。美しい彼とお近づきになりたいだとか、誰かを助けることで自分も救われたいだとか、常に人は人か神に対して交換条件を突き出す欲深いものであった。青年自身も少女と出会った時、人間としてのその一面の健在を感じた。自分の中にある愛おしい人間的思考だと思っていたものがこの老婆にはないのか、その思いは彼の心を弱くした。

 

 青年の少し曇った表情を見て、老婆はたわいもない話をと話を始めた。

「お兄さん見てるとなあ、むかーしに見た近所のお兄さんを思い出すわなあ」

 

 青年はハッとした。そして大きく首を振り老婆を見た。

「あ、もしかしてお兄さんのお父さんとかおじいさんとかやったりするんかなあ。もうずっと前のことやし、顔もはっきりとは思い出せへんねんけど、オーラ言うんかな、なんとなくあの人を思い出すんよ」

 

「それは多分祖父だと思います。一時期ここの辺に住んでいたと聞いていますので」

 溜息のようにそう言う青年を見て老婆はそうかあと息を吐くように答えた。

 

「街の人みんなお兄さんのおじいさんのこと大好きやったんよ。ほんの数年しかいはらへんかったんやけど。私のお姉さんなんかはほんまにぞっこんでなあ、色男やってん

 自分のそんな評判を目の前で聞くとなぜか気持ちが萎えるのはなぜだろう、青年はそんな疑問が浮かんだ。

 

「おじいさんは頭も良くて愛想も良かった。子供に遊んで言われたら断らんのよ。それが逆に、ちょっと心配やったけどねえ」

「心配?」

 青年は聞き返した。

 

「そら心配さあ。人間は人のために生きてるわけちゃうねんから、人の予定に全部合わせて自分が蔑ろになってるんちゃうか、と小娘ながら心配したさあ」

 青年は思い出す。

 

 あの時は、街で生活する時は、街の人びとに馴染むために誘いは断らないようにしていた。オンオフは街か山かと言う決め方だった。だから街では常にオンの状態だったのだ。それが人によっては心配という違和感に繋がるとは、思ってもみなかった。青年が鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていると老婆はしわを濃くして微笑んで言った。

 

「自分のために生きることは悪でないよ。人に合わせて生きるなんてそもそも不可能なんやから。しかしそれをわざわざしんどいのにするのが私ら人間ではあるねんけどね

 

 そう言うと続けて、早く帰って薬飲ましたりい、と言って光の差す店の奥へ入って行った。青年は「ありがとうございました」と小さな声で挨拶をして重い足取りで店を出た。行きに走った疲労のせいだと思う。筋肉へ乳酸が分泌される感覚がした。

 

 動きの鈍い体に鞭を打って青年は小屋に戻った。小屋に着くとすぐに少女をベッドに寝かせて食事を作り出す。

 

 いつものように蒸した芋をすり潰す。慣れた手つきであるがどこか心ここにあらずで虚ろな瞳である。噛む回数の少ない方が楽だろうと細かい玉ねぎの浮かんだスープを作った。マッシュポテトに軽く塩を振ってスープを注いだ皿に一緒によそった。

 

 青年は少女に声をかけた。少女は青年の呼びかけに薄く目を開けたが、その瞳はぼやけていた。少女から見る景色はダリの描く世界のように無秩序で混沌としており、それは悪い夢のようで少女は吐き気を感じた。

 

 青年は虚ろな瞳の少女に、喉は乾いてないか、食事はできるかと声をかけたが、夢遊中の彼女からは返事がなく、仕方なく少女の顎を支えて彼女の口に水を運んだ。気道を塞がないように少しずつ透明な水を流し込む。少女の力無く小さく開かれた口の端からは時折一筋の雫がこぼれ落ちる。それはシーツに落ち、色を変えて染み込んでいく。青年はこれが落ち着いたら、シーツの洗濯のタイミングに悩むことになるだろう、と一人憂鬱を抱えた。