善と鱗

のんびり静かに暮らそう

生と死と夕焼け-EP4

 少女にとって二度目となる死との遭遇は、まさに青年と出会ったその日だった。突然窓の外に現れた天使が、己の生きるための管を全て取り除いたのだ。その時のことを思い出すと少女は身震いをした。

 

 そして同時に、今その管なしで平気な顔をして過ごしている自分にも悪寒がした。もしかして不死身の薬でもあの天使に飲まされたのかもしれない、そんな思いまでした。少女にとってこの青年という存在は確実に恐ろしいものだった。それは生きる術を奪い、微笑む悪魔だとも表せたから。

 

 しかし少女はあの出来事から一つの自分を見出していた。それは生に執着する自分である。寝て、起きて、息をするだけの生活の中で死んだ心が、あの生と死を意識した瞬間に目覚めたのだ。それは少女と言う人間を生み出したことにも等しい。

 

 少女は考えた。彼と自分と、一体どこが似ているのか。どこが彼の中で重なったのか。他人である自分が考えても仕方のないことだと思いつつも、少女は頭を捻らせた。彼は自分を理解してくれたのだから、自分も彼を理解できるはずだ、とそんな持論まで構えた。

 

 少女と青年はその小屋で静かな夜を迎えた。年頃の女子と青年とで明かす初めての夜は、緊張に包まれるものだと思われるだろうが、そんな一般的な思想とは裏腹に彼らの夜は穏やかに明けていった。それは青年も少女も揃って、一晩中終わりなき問題に頭を悩ませていたせいかもしれない。

 

 朝日が昇る。それは朝の深い霧の間を縫い光を彼らの元へ運ぶ。青年は床でクッションとブランケットを抱き、坐りこむように眠っていた。少女は小さなベッドで昨日と変わらずに薄いシーツに包まっている。

 

 しかし少女のその目ははっきりと覚醒を示しており、これまで繰り返し続けた二度寝を許さない眼光が朝日にも勝って輝いている。少女は一言青年に声をかけた。

「おはよう」

 

 小さな声の挨拶だ。そして少女ははまるで五、六歳の幼女のようにシーツと絡まって遊びだす。少女がシーツの感覚をこれほど楽しく感じるのは脚があった頃以来かもしれない。ただ、ない脚の断面を守るために窪み覆う皮膚から伝わる、冷たくすべすべしたシーツは気持ちがいい反面で恐怖を与えた。

 

 少女はシーツの感覚をその身いっぱいに感じた後、もう一度挨拶をした。

「おはよう!」

 青年はその大きく明るい声に驚き、肩を揺らして顔を上げた。そしてその少女の赤子帰りにも似た態度にまた酷く驚いた。そして彼はこう解釈した。

 

 彼女にとっての敵であった両親の元から離れた今、子どもとしての彼女が目覚め、ずっと塞ぎ込み、抑え込んでいた幼気な無邪気が爆発しているのだ。

 

 しかし彼は親ではないし兄でもない、そういった稚拙な存在との交流経験は無に等しかった。彼は困り果てた。一人で何が可笑しいのかクスクスと笑いながら、コロコロと転がる少女をただ呆然と眺めた。彼女が転がると長く淡い栗色の髪がサラサラと流れ、朝日に照らされたそれが金にも銀にも見えきらめく。それは夜空を輝く星の群生にも近しい。青年ははたりとして尋ねた。

「昨日のスープは美味しかったかい?」

 

 少女は動きを止めて青年に顔を向けた。その表情は至極真面目で、唇をきっと結んで二秒、青年を見つめた。そしてすぐに表情をころっと変えてニコーっと効果音がつきそうな笑顔を浮かべた。青年は悪さをしたような気持ちになったが少女の笑顔が純粋に嬉しくて微笑んだ。人と笑い合えると言う幸せを感じるのはいつぶりだろう。

 

 青年は立ち上がり調理場に向かうと、朝食にと昨日のスープにきのこを加えたものを少女に手渡した。少し落ち着いた彼女は静かに受け取りスープを飲み干した。

 

「朝からはしゃいで疲れただろう?もう一眠りなさい」

 そう言って、少女をもう一度ベッドで眠らせた。それを見届けてベッドから離れ立つ。

 

 一人になった青年はただ昨夜の己の愚行を恥じた。それは昨夜と全く違う少女を見て更に浮き彫りに自己嫌悪となった。口は災いの元だ。秘密を知られてはいけない。もう何百年もそうしてきたじゃないか。自分の心の中でヒステリーを起こす。彼は彼女に自分の秘密を話そうかと、昨夜本気で思ったのだ。出会って数日の彼女に。これからまともな人間になっていく彼女に。

 

「わかっている、また置いていかれるだけだ

 僕の秘密を知った者は僕の元から去っていった。

 例え知らずとも、年月が経てば僕が消える。

 また彼らは不運でその命火を断つ。

 僕には与えられない絶対的な死を彼らは、

 いとも簡単に与えられる」

 

 青年にとって口に出して言うということは、自分の思考を俯瞰視するのに有効だ。頭の中の形のない不快感が、確かな型に嵌まるのを感じた。

 

 昨夜の青年は少女に同情したのだ。それは優しさや偽善から来るものではない。ただ諦めてしまえば楽なのに、という感情から派生した感情だ。

 

 青年は彼女と似た思いを持ちながらも、ただ諦め、ただ運命を受け入れることで心の平穏を手に入れてきた。何かを代償にすることもなく長い年月を生きてこれたのだ。少女にそのことを教えるためなら自分の秘密を曝露しても構わない、と昨夜の彼は思った。

 

 そしてそんな自分を彼は今、恥じている。変わらぬ決心を己で破りかけた事実が、重く彼にのしかかった。シンとした重圧を感じる空気の中、青年はただ一人、少女の寝息に耳をすませた。

 

 穏やかな寝息に緊張が解けるのを感じる。これが少女だからなのか、人の生きる音だからかはわからない。ただ少女の寝息は彼に心の平穏を取り戻させた。彼はその寝息につられるように、呼吸が深くゆっくりになり、眠りに落ちる。眠っている少女と、その少女の眠るベッドに首をもたれさせて眠る青年の様子は、フランダースの犬の最後の一描写のように神聖で、孤独とは無縁のような心持のさせられる様だった。

 

 少女は目覚めた。そしてベッドの脇で首を預けて眠る青年を見て微笑みを浮かべた。青年ほどかはわからないが少女は青年に対し憐愍の念を持っていた。それを少女が自覚しているかしていないかは定かではない。しかし少女は昨夜の彼の言葉から、彼は自分の脚に相応しい何かを失っていることはわかった。

 

 何よりも一目見て自分と重なるものがあると相手が思ったということは、そういうことなのだろう。彼女穏やかな心境の変化を迎えていた。それは一種の享受であり成長とも取れる。また彼女と彼のシンクロニティの高まりを助長するものであることも確かであった。

 

 ふと窓際に、滑らかで普遍的な石とゴツゴツとして原石のような趣の石が置いてあるのに気づいた。そして少女はただそれを眺めた。

 

 青年は目覚めた。目覚めるとあたりは薄暗くなっていた。長い時間眠っていたのか、ただ空に雲が覆っているだけなのかを判断する材料が今の彼にはなかった。しかし確かな腹の違和感を感じたので、なにかしらを胃に入れる必要があることはわかった。

 

 青年は立ち上がろうと首を起こすと、使った後、放置して固くなった雑巾を伸ばすような違和感と、それによって与えられる雑巾側の痛みを感じた。単調に言うのなら寝違えた、と言う表現が近しい。青年が眠っていた姿勢を思えば当然とも言える結果である。

 

 青年は動きの鈍い首を上下左右と動かし、ぐるりぐるりと回して立ち上がった。激痛ではあったが一時のことだと耐えた。調理場に立つと鍋に残ったスープを見つめた。もう量はかなり少なくなっている。そもそも少女が飲むかどうかも、量がどのくらい必要かもわからずに焚いたので、青年にはこの量が、焚きすぎだったのか足りなさすぎだったのか、判断もつかなかった。少女は青年にとっての一人前の量は当然食べないが、野良猫に与える施しよりはよく食べた。

 

 青年は同じく残りわずかな山菜をすり潰してスープの入った鍋に加えた。水や調味料も足して、意味もなく使ったこともない調味料を加えた。後から少女が青年に耳打ちした話だが、案外この調味料がスープに合ったらしい。しかし、なんとなく加えた調味料の名を青年は記憶しておらず、その味は二度と再現されることはなかった。

 

 青年は翌日、ある決心をしていた。繋ぎで入手した山菜も使い切ったところで、一度街に買い出しに出ようと考えていた。しかしまだ青年はこの麓の町から離れて数十年しか経っておらず、彼にはそれが大きな不安材料となっていた。

 

 あの当時の人間たちが例えば順調に育ち、まだあの街にいるとする。母や父、祖父母世代はもういないと考えて間違いない。当時二十代だった者たちも出稼ぎに国を出ている可能性は高いし、あの街に残っていたとしても歳も歳だからもういないかもしれない。しかし、当時子供だった者たちはどうだろう、そう考えだすと青年の気持ちは大きく揺れた。

 

 例え当時幼な子であったとしても、自分のこの美しさを目の前にしては彼らの記憶が呼び覚まされるのではないか、そんな不安が彼を蝕む。今まで確実な時が過ぎるまでに一度出た街へ戻ることなんてしなかった彼の一世一代の決断の時が迫ってきている。

 

 まだ冬も明けたばかりのこの森で手に入る食料はそこまで多くはなく種類も少ない。街に出れば主食となるパンや芋も手に入る。この小屋に長居するつもりでいるわけではないが、今後移動することを考えると、体力をつけるためにも少女にきちんとした食事をさせたほうがいいだろう。そう彼もわかっている

 

 彼は一人、街へ向かうために身嗜みを整えた。少女を連れて行こうか悩んだが、何しろ寝たきりの生活から急に逸脱したばかりなのだ。片脚がないことを好奇の目で見てくる者もあるだろう。青年はそんな視線に少女を晒したくはなかった。

 

 しかし青年のそんな想いとは裏腹に少女は目を覚まして青年の様子を見ていた。

「どこへ行くの?」

 

 青年は予想外の問いかけに固まり、困惑を隠せなかった。街へ、と伝えれば少女は付いて来たがるだろうか、嘘をついて出てその嘘が明るみに出た時少女と自分の関係はどうなるだろうか、一瞬で不安材料が出揃った。

 

「少し食料を探しに出かけるだけだよ」

 嘘は言っていない、それが青年の心を落ち着かせる一筋の蜘蛛の糸だった。この返事が青年にとっては己に導き出せる最もベターな、つまりベストな回答だった。

 

「また山菜を?」

 少女の問いに短くうんと答えた。いってらっしゃい、次に少女はそう彼を送り出した。

 青年は検問を抜けたように安堵した。それは少女が自分の答えをすんなりと受け入れ、最初はグレーなものをブラックにする必要がなくなったためだ。安堵をそのままに青年は街へと向かった。