善と鱗

のんびり静かに暮らそう

生と死と夕焼け-EP7

 少女の風邪は四日ほど薬を毎食後飲んでいると、すぐに良くなった。青年はその様子を見ていると、どんどんとあの薬草師に早くお礼を言いたくなった。

 

 ただあの薬草師は、自分を遠い記憶ながらに覚えているのだけは気がかりであった。その変わらない閉じた扉は重く固い。青年の心に重くのしかかる扉は、天から舞い降りた奇跡のようなものが魔法でもかけて解いてくれないだろうか、とありもしない期待を脳に浮かべた。

 

 少女の風邪が治り、一週間が経った頃、少女は青年の背に乗って小屋のそばを散歩するくらい元気になっていた。そしてこの日も少女は青年の首に手を回し外の空気を肺いっぱいに吸い込んでいた。

 

「ねえ、そろそろ街へ行かない?」

 少女の突然の問いかけに青年は驚いたものの、そうだね、と答えた。

 

「あら?随分物分かりがいいのね?」

 と少女が可笑しそうに言うと青年は、

「だって君いつも薬草師にお礼を言いに会いに行くってうるさいんだもの」

 青年は呆れた様子で、ただ笑顔を浮かべて言った。その様子に少女もクスクスと笑っていた。森の空気が彼らを包んでいるのか、彼らの空気が森を包んでいるのか、その場は非常に和やかであった。

 

 数日後、少女を背に乗せた青年は街へ向かった。山を下り、草むらを抜け、街を見渡せる高台へ。少女は始終目を輝かせていたが、海を前にした瞬間そのテンションは段違いに上がった。

 

「これが海!大きな大きな水たまり!」

 幼児のようにはしゃぐ彼女は片方しかない脚をぶらぶらと揺らして体で感情を表現している。そしてすぐに落ち着いて、少女は街へ目を移し懐かしそうに眼を細める。

 

「私が小さい頃いた街とは全然違うけど、なんだか素敵なところね」

 そう微笑む彼女を青年は愛おしく思った。誰よりも君に幸せになってほしい、そう願った。

 そして青年は不安になった。薄いシーツを長いスカートのように巻いて脚はほとんど見えていないが、今回は街の中心まで行く予定なので街の人々が彼女を奇怪を見る眼で見ないか、彼女がそれに心を痛めないか、青年には他の何よりもそれが心配であった。

「ね!早く生きましょう!」

「そう急かさなくても街は逃げないよ」

 そんな心配はつゆ知らず、少女は笑う。青年はそれに応えるようにまた笑う。そんな二人は街へ向かう。

 

 街に入ってすぐ、いわゆる街の外れにあの薬草師の店はある。まずはそこに行ってお礼を言おうと二人は決めていた。

 クリーム色の壁に包まれた薄明るい店内に入る。少女もここに来るのは二度目だが、前回は意識が朦朧としていたので初めての心地がした。青年がすみません、と声をかけると店の奥からあの漢方着の老婆が出てきた。おやおや、と眼を細めて笑う老婆に少女は一瞬身を強張らせたがすぐに元に戻った。

「もう良くなったんね、おじょおさん」

 あの日から早くも一ヶ月近くが経とうとしていたが、変わった訛りのある話し方も老婆の顔のしわも何も変わってはいなかった。青年はそのことにほっとして本題を伝える。

「お婆さん、先日はありがとうございました。彼女の熱は

 薬を飲んで四日もすれば治っていたのですが、安静に、

 養生を、と心掛けるあまりお礼が遅くなってしまいまし

 た

 丁寧に頭を下げる青年に対して老婆はにこにこと笑顔を向けて頷きながら佇んだ。そこに青年の背中から椅子に移り、背もたれに背中を預けて座る少女も、そわそわと何か言いたげな眼をする。青年は当然それに気付き、目線で言いなさい、と合図を送る。

「あの、お婆さん」

 一度言葉はそこで切れる。青年以外の人間と話すのは何年ぶりか、やはり緊張するのであろう。あ、その、と口の中で小さくモゴモゴとする少女に、老婆は優しい眼差しを向ける。

 青年はゆっくりでいい、そう心で囁いた。それは一見少女のためのようにも聞こえるが青年自身の願いでもあった。少女の早くて目まぐるしい成長が少しでもゆっくりになればと望んだ。それが彼らのタイムリミットとなるのは青年にもわかっていたから。

「ありがとうございました!」

 青年の祈りに似た思いも虚しく、少女は青年の背中からキラキラと輝く瞳で老婆にお礼を告げた。青年からすれば少女の成長は寂しい、だが確かに嬉しいことだ。

 青年は微笑んで老婆にお代を渡した。薬に対するお代というよりは、感謝からくる「これで好きなものを食べてください」という気持ちのお代だ。額が足りているのか、それとも足りていないのかはわからない。それは老婆にしかわからないことだ。そしてこの感謝のお代の過不足もまた僕等にしかわからない。老婆はそれをきちんと理解してくれる人だと思う。だから青年と少女は誠心誠意お礼を伝えた。

 

 老婆はお代の包みを受け取ると中身は確認せずに確かに、と受け取った。優しい微笑みには一寸の闇も曇りも見えなかった。二人は出されたお茶を飲むと老婆と握手を交わして店を出た。老婆はカウンターから店から出る二人を見送った。天井からぶら下がった薬草が二人が去る時、風でゆらゆらと揺れた。

 

 当初の目的を果たした二人は探索をすることにした。それは少女のかねがねの希望であった。青年は少女を背負った体勢のまま街を練り歩くことになる。なんでもない赤レンガの道を少女は興味深そうに見つめる。背負われた彼女から見えるその地面は遠くて小さいものだが、少女は上へも下へも興味を巡らせた。

「あれは何?」

「魚屋さんだよ」

「これは何?」

「マンホールさ」

 少女は言葉を覚えたての子どものようにあれはなんだこれはなんだと青年に疑問をぶつけた。青年はそれに大雑把に易しく答える。

「あそこに入ろう」

 青年がそう提案したのは女物の服屋さんだった。青年は少女に病服や己のシャツを着せていることに段々と心苦しさを覚えていた。そこで今回の機会でもう彼女の服に困らなくていいように、女物の服を買ってあげるつもりでいた。

 店に入る手前で簡単なブラウスやシャツ、スカート、下着などを買い揃える旨を説明すると少女は一瞬嬉しそうな顔を見せたが、その顔は次第に曇ったものへと変わる。青年はなんとなく少女の言いたいことはわかる。

 他人なのに、脚がないのに、きれいな服なんて自分には勿体無いのではないか、そんな思いは、コンプレックスを持つ人間なら誰でも持ち得る感情だ。

 もちろん、青年も感じたことがある。何も食べずとも生きれるのに、美味しいもの、食物を毎日食べるなんて自分には勿体無いのではないか、そんな思いをしていた。しかしそんな思いとは結局、湧き立つ欲に任せるという決断をしてからは無縁となった。青年は少女に言った。

「君には洋服が必要だよ。着飾る自由だって君にはある。

 だって君には体があるんだ。手も足も顔もある。少し足

 りないからと言ってそれが不要の原因になるとは言えな

 いと僕は思う。そして何より大事なのは君がそれを欲し

 ていることだ。君がいらない、と心から言うのなら僕は

 無理に君に着せようとなんてしないよ。ただ君が着たい

 ものがあるなら、それを当然僕も止めない。だって僕ら

 は助け合う、似た者同士だから」

 そして少女は小さく、スカートが欲しい、と呟いた。

 

 買い物は順調に進んだ。荷物も沢山増えてそろそろ帰ろうか、そんな時だった。

「ベル兄さん……⁈」

 しゃがれ声が悲鳴にも近い声を上げた。青年は血の気が引くのを感じた。なぜなら、しゃがれ声の叫んだその名前は、かつて自分が使っていた名前だったからだ。

 青年は目の前にいる老人をじっと見た。どこの家の子だったかと頭を巡らせたが、もう子どもの頃どんな姿だったかなど想像できないほどにシワクチャになっていた。

 少女は青年の顔色の悪くなる様を間近で見ていた。サアッという表現が実に似合うその様子に、少女は正体のわからない恐怖に襲われた。ギュッと青年の首に巻きつけた腕に力を込めると、青年はハッと口を開いた。

「嫌だなお爺さん、どなたか存じませんが僕はベルなんて

 人間ではございません。ああ、ただ僕の祖父の名はベル

 と言ったかな」

 少女はとってつけたような笑顔と焦ったような普段より少し早い口調の青年を見て、青年の震えを感じていた。

「そうか、奴が生きているわけがないよな」

 老人は青年の答えに怪訝そうにはしながらも、納得したように見せた。少女からしてもわかる、青年の祖父くらいの年なら生きている可能性は著しく低いこと。しかし少女から見れば青年が嘘をついていることも手に取るようにわかった。一体どんな秘密を隠したというのか、少女にはまだ合点がいかない。

それは少女の心にも靄をかけてせっかくの楽しいお買い物がまるでなかったことのようにくすんで感じた。

 

 青年はその後、その老人から逃げるように愛想笑いをして高台の方角へ歩き出した。少女は人には知られたくないことの一つや二つくらいあることは重々承知だった。自分もそうなのだから。しかしこの青年の以前言っていた秘密というものに、少女は少し疑問を抱いた。

 帰り道、青年はよく話した。明るく振舞うように努める様子は、少女には余計に痛々しく映った。