生と死と夕焼け-EP1
太陽から降りてくる白い光が、白星の瞬きのようにシャラシャラとうるさい昼下がり。その光を浴びた桜はしなやかに枝を伸ばし、吹く風にその桃色の髪を揺らす。その姿は自然界を統べる女神の風格を現す。女神を視野に捕らえた赤茶色のレンガの家の窓から、ベッドに横たわる老婆と、それを優しいまなざしで見つめる美しい青年が見える。
二人は静かに微笑みを浮かべ、もう何年振りかに再会した恋人同士のように、そして、おとぎ話に出てくる王子様とお姫様のように、向かい合っていた。その様子は、この空間だけは時間の流れがゆるやかであるような錯覚を覚えさせる。
生ぬるい風がまた吹いて桃色の花びらを彼らの世界に運ぶ。花の甘く鼻腔を刺す香りが、彼らの空間をさらに幻想的なものにする。赤茶色のレンガに包まれたこの空間は、もうこの世のものではない、そんな風にも思える。
「人はいく時何を思うんだい」
青年は視線とは打って変わって単調な口調でそう呟く。一拍あけ、さあねえ、とのんびりとした掠れた声が答える。その様子は恋人同士、というより幼なじみ、という関係の方がしっくりくるような受け答えであった。
答えを聞いた青年はそっと、老婆の紙を丸めたようにしわくちゃな手に彼のしわひとつない美しい手を重ねた。
美しい青年は老婆の手に触れて感じ取っている。しわだらけだが潤いのある皮膚、浮き出た骨や血管、それらがそのしわくちゃなものが生きたものであることを証明しようとしている。青年は己の手でそう感じ取る。
青年は彼の美しい指を、老婆の皮の余った指に絡ませる。老婆は弱々しくも青年の指に応えてみせる。人間の余った皮はこんなに柔らかいのか、と青年は驚く。そして飽きる様子もなく青年はその手に指を滑らせ続ける。
「こんな私の傍になんて居たくないでしょう」
か細く、しかしどこか諦めたような口調で老婆が言う。
「君は綺麗だよ、いつまでも」
青年はほぼ間髪を入れずそう言い放つ。その後、少しばつが悪そうに老婆から視線をそらした。一見すると支離滅裂とも言える会話にならないような返事に、老婆は照れたのか呆れたのか少し笑うと枕に深く頭を埋めた。
そんな老婆の様子を見て、青年は寂しそうな表情を浮かべ、老婆の手をキュッと握りしめた。彼は彼女からする優しい匂いが嫌いじゃない。胸いっぱいに吸い込んで、彼は走馬灯のように思い出した。
彼はこの世の誰よりも美しかった。生まれた時から消えるその時までずっとそうだと、神と契約でも交わしたかのように洗練された存在であった。野原で咲く花や夜空に輝く星たち、川を流れる水でさえも、この世の事象のどれもこれもが彼の美しさには敵わなかった。
彼は生まれてきただけで多くの人を幸せにできた。彼が声をかければ少女は頬を染めて喜び、その顔に花を咲かせる。彼がただ笑いかけるだけで、多くの人の心が潤おう。
彼は生きるだけで祝福された。しかしそれは彼の秘密を知らない者たちに限られた話だった。
彼は生に囚われていた。その運命は呪いのように強力で不滅である。美を愛した神が、彼に永遠に生きろと命令したのかもしれない。それとも神は永遠の美を具現化したくて彼を生んだのかもしれない。
なんにせよ彼は神に愛されたのだ。そしてそれゆえに呪われてしまった。この世に生を受けてしまった彼はこの運命を受け入れるしかなかった。曇らない眼、枯れない肌、衰えない筋肉。いくら抗酸化剤を使ったとしてもありえない。若く見えるなんて話では説明がつかない。そうするうちに、気がつけば彼の身近な人たちはいなくなってしまっていた。
そして彼の生まれた町での生活が数十年の月日を経た時、異端を嫌う人間たちのいつまでも変わらない彼を見る目は変わった。
彼の生まれ育った街では青年が吸血鬼なのではないか、悪魔の使いなのではないか、そんな噂が蔓延った。そして周りの人間からの彼への視線は、熱を帯びた称美の眼差しから冷たく鋭い、刺すような視線に変化していった。
魔女狩りの文化の残る土地での、その視線の意味は彼にも痛いほどにわかった。そして身の危険を感じた青年は脱獄犯のようにこっそりと街を出たのだ。それは終わりなき放浪の始まりだった。
いくつもの国境をまたぎ数多くの街を数年、十数年のスパンで移り住む。今までの自分を殺し、慣れた街を出て新たな街へと向かう。そんな根無し草のように彼はこの地球上を浮遊した。ある時は砂の国。ある時は水の国。ある時は学生。ある時は学者。彼はまやかしのようだった。
青年はこれまで幾度となく大陸を渡った。彼でも海の上にずっといることはできない、だから海は彼にとって特別だった。優れない気分が数年続くようなら、必ず大陸を渡る。道中の海で自分を洗い流す。そして色の違う大地を踏んで生まれ変わる。それが彼のルーチンだ。
この日は生まれ変ってそう時の経っていない時のことだった。
その日は随分と空が遠かった。大きな湖に映る空を眺めていると、上も下も空で、彼は自分が空に浮かんでいるような錯覚に陥った。そして彼は歌を歌いたくなった。随分と昔に聴いた歌を、この空に染まった湖にどうしても聴かせてやりたくなった。
そうして彼はおぼろげなハミングをした。ハミングの音、風になびく水音、木の葉の擦れる音、その全てが調和を示しており神聖な雰囲気を創り出す。湖の女神も天使が舞い降りたのかとびっくりして出てくるところだ。しかし彼はそんな神聖な雰囲気の中、誰かが言った言葉を思い出していた。
呪われたのは前世のお前が大罪を犯したからだ。
生の始まりの頃の話だ。未熟な彼はこの言葉を真に受けていた。己の大罪について考え、償わなければと。しかしそれがどういった罪なのか、そんなことはわかるわけもなく、何十年も何百年も考えているうちに諦めてしまった。
今の彼は死を望みはしない。彼は生に固執して生きると決めていた。次に神が彼の魂を手元に置きたくなって、帰ってきて、と泣いて喚いても、彼はその器を手放さない。そして彼の肉体の呪いが解かれたとしても、その魂は神の元へは還らない。
彼の心はとうの昔に堕ちてしまっている。その天使のように美しい器の中にはどす黒い何かが詰まっている。天界に上がれるほど軽くはない。何百年もの間に溜まった重いものだ。
青年は湖と別れ、隠れるように山小屋で羽を休めていた。近くに民家はなく、お隣の家までは山を下りなくてはならない辺鄙な場所である。しかし人目を気にしなくていいこの場所は彼にとっては都合が良かった。
青年は羽休めのついでに山の中を探索しようと出かけた。彼は何かが見つかることを期待していたのかも知れないし、そうでないのかも知れない。ずっとずっと歩いて、彼の視界には鬱蒼とした木々から一変、拓けた光の差し込む緑のプールが広がった。その真ん中にはさながらヘンゼルとグレーテルのお菓子の家のように、ぽつんと大きな赤いレンガの家が建っている。
彼はつたの這った壁を見つめながら、ぐるりと家の周りを歩くことにした。歩く最中、家の脇腹で東を向いて立った。昇った太陽はもう真上近くまで来ている。一室の窓のカーテンが開いていたので、彼はなんとなく覗いた。彼がちらりと覗いた瞬間、何かと目が合った。
それは白い獣のような人間の少女だった。齢は一五くらいだろうか。真っ白な肌に淡い栗色の髪、澄んだヘーゼルの瞳。細い首、疲れた眼、袖から覗く折れそうな腕。この少女を構成するものはどれもこれもが頼りなく、少しでも目を離せば消えてしまいそうな危うさがあった。そして青年は文字通り彼女から目を離せなくなった。
一〇秒か、一分か、十分か、わからない時間を、ずっと彼は彼女を見つめている。しかし彼女は顔色ひとつ変えなければ何のアクションもない。窓辺の鳥が飛んだとしてももう少し反応するものだ。まるで青年が景色のように彼女には見えているのかも知れない。
彼はそう思うと、アイロニーなことだが彼女に愛おしさを感じた。青年は彼女に自分を重ねた。きっと自分と同じように美しい彼女に。
他人の不具合を喜ぶなんて道徳上は良くないことだとわかりながらも、彼は自分と同じ不具合を歓迎した。自分と同じ不具合を持つ彼女を心から喜んだ。そして彼は思った。
この少女はきっと同じ不具合を持つ僕を、僕が彼女を愛するのと同じように愛するだろう。しかもそれは今まで僕が向けられたことのない愛のはずだ。
彼は面白いことを思いついたワクワクで、堪え切れず小走りで彼女に近づいた。
窓のほんそばまで近づいて窓に手をかける。鍵はかかっていなかった。窓に手をかける青年を見ても、少女の表情は変わらず、ぼうっとその姿を眺めるだけだった。
大声をあげてもいいくらいの出来事だろうに、と青年は冷静に一人脳内でつぶやく。もちろん、現状の彼にとっては彼女は静かな方が都合が良かった。こんなところ、他の誰かに見られたら間違いなく近くの自衛団を呼ばれる。
そう思いながら彼は窓をまたいで少女の部屋に君臨した。ベッドと窓のある壁との間がほんの数センチしか空いていなかったので、彼は仕方なくベッドの上に降り立つ。
青年がこんなに近くまで来ても、彼女の疲れた眼は彼をただ眺めるだけ。彼も負けじと彼女を見つめると、わかったことがあった。彼女の体には管が付いていた。それも一本や二本じゃない。それを知った彼は彼女がますます自分と同じなような気がした。
彼女はこんなに疲れた眼をしているのに、彼女を愛する誰かのエゴは彼女を放さない。彼女はこの世にただ血の通う屍として縛られている。その姿が自分と重なった。
青年はそっと彼女の手に己の手を重ねた。彼女は瞳だけを動かして青年の顔と青年の手を見た。そして彼は彼女の体についた管を外した。青年は彼女に引導を渡してあげたいのだ。腕につけられた管も、鼻につけられた管も、胸につけられた管たちも、全部丁寧に取り払った。そうしたら彼女は少し呼吸を荒くしたものだから、きちんと生きている、と彼は一種の満足感に満たされた。
これで彼女が口がきけたなら、生きたいのか、死にたいのか、真っ先に尋ねるのにな、そう思いながら今度は彼が、小さくもがく彼女を眺めた。彼女の疲れた眼と苦しさから乱れた髪が合間って、その姿は官能的で、甘美な匂いがした。
青年がそんな彼女を見ていると、廊下からパタパタと焦ったような足音が聞こえてきたので、青年は入ってきたときのようにさっと窓から外へ出た。
真っ白な服の女性と男性が入ってきて、急いで管を付け直している。一通り付け直すと彼女の身なりを整え、白い人たちは出ていった。
ガラス一枚を隔てて眺めたその数分は、現実のこととは思えない光景で、まるで無音映画のワンシーンのようだった。そして部屋に戻った青年は驚いた。乱れていた彼女が清潔に横たわっているからではない。その彼女の手を見てだ。彼女の手にはナースコールが握られていた。
あの時、彼女は鳴らしていたのだ。もしくは、ずっと握らされていたのを力んだせいで押したのか。この彼女の意思なのかそうでないのかと言う問題の答えは、青年にとって大きな意味がある真実だ。
しかしその日の少女は目を閉じ、それ以上青年を見つめはしなかった。彼は数分彼女を見つめていたが、一向に状況は変わらない。諦め、夕日を眺めながら長い山道の帰路に着いた。しかし彼は山小屋に帰った後も、彼女がどう感じたのか知りたくて仕方がなかった。