生と死と夕焼け-EP8
小屋に戻った二人は荷解きをして購入した洋服なんかをタンスにしまった。二人は明るく話しているようでお互いに闇を抱きしめて別のことを考えている。
青年は恐怖に捕らえられ、少女は青年の秘密という甘美な響きに捕らえられている。
少女は青年の秘密が青年にとって良くないことなのは本人の言い草からも知っている。それに今、青年にそのことについて尋ねてもいいのか、少女には判断が付かないでいる。何年も人と関わってこなかったからかな、そんなどこかで聞いたような言い訳も考えていた。
二人は何事もなかったかのように食事をして床についた。少女は小さいながらも柔らかいベッドへ、青年は固く広々とした床で、頭を働かせながら眠気を待った。
正直にいうと、青年の心はあの夕どきからずっとザワついたままだった。大丈夫、何も恐れることはない、そんな風に自分自身に何度言い聞かせようとも、そのザワつきは消えない。青年は理解し難い焦燥感に身を焦がしていた。
そしてなぜ自分だけがこんな風に苦しみ続けなくてはならないのか、青年は怒りすら覚えた。しかし頭の片隅ではこの感情は乗り切った感情だ、今自分がしているのは反復練習のようなものであり、おまけに使い物にならない、自慰的もので何も生まない。そう思ってはいるが思考は消えない。こんなのは本当に一四歳児のようだ。青年は自嘲した。
ドサッ
青年の耳に不可解な音が飛び込んできた。
何の音だ?
何か重たいものが床に落ちたような音だ。それは石のように固くない、しかしスライムのように柔らかくもない。そして青年は寒さで酔いがさめるように気付く。この部屋であんな音がするのは人がベッドから落ちる音以外に考えにくい。青年は振り向こうとした。しかしそれは背中に触れた暖かい感触で静止された。
「今日は様子が変だった」
拗ねたような心配したような、そんな声色だった。
「老人に会ってからよ、あなたがおじいさんの名前で呼ば
れてから」
背中で寝返りをうつ感覚がする。少女は両手を青年の背中に置いて問いかける。
「何を恐れているの」
青年は勢いよく不振り向いた。その目は血走っていた。
しかしその目はすぐに、少女の猛禽類のような瞳に怖気付き、光を失った。青年は己が恐れていることを受け入れ、
「僕は怖いんだ。僕の秘密が他人に知られることが」
ポツンとそんな言葉を、切れた蜘蛛の糸のように力無く垂らした。向き合ってはいるが二人の視線は交わらない。
「それは誰にも知られてはいけなことなの?」
その少女の問いに青年は声には出さないがしっかりと頷いた。
「あの老人には?」
「ダメだよ、知られてはいけない」
「薬草師のお婆さんは?」
「ダメだ、恐ろしいよ」
「私は?」
「……」
青年は答えなかった。少女にはわかる。青年が悩んでいること。青年は今、自分でどうするべきかわからないのだ。
ずっと隠し通してきた、しかし誰かにずっと言いたくて堪らなかった、そこに似た者の少女が現れた。それは運命的であって必然的だ。そう感じる青年は彼女なら受け入れてくれるかもしれない、そう希望を抱く。
しかしあれは運命でもなんでもない、ただの偶然だ、もしくは神が自分にさらに深い絶望を与えるために用意した女神なのだ。そう言う青年がやめておきなさい、離れていくのが早くなるだけだ、と青年を引き止める。それは青年の中に生まれた無邪気な天使と悪魔であった。
青年は自分の中のドロドロとした感情を感じた。そして糸電話のような、遠くて小さくて不安定だった思考が一つの答えを導き出した。
「そうか、神は僕に堕ちろ、と言っていたのか。自分が僕の魂を欲っしたとしても手が届かぬように。手に入らないでいてこそ真の美であるということか。いや、この犯人は神ですらないのかもしれない。何か得体の知れない強い力を持ったものが僕を欲したのだ。人間の命が数十年と決まっているのは、この人間には重すぎる絶望を溜め込みすぎず、天界へ登るためだった」
「生まれる前から僕の行く先は決まっていた」
苦しみから生まれる重くてドロついた絶望に気付いた青年は打ちひしがれた。もうすでに一千年近く生きている青年に成せることなんてない。少女は青年をおいて去っていき、いずれは天に登ってしまう。悔しさから青年は頭を掻き毟った。悔しい。
青年の言葉に少女は完璧な答えは得られなかった。しかし青年の悩みの規模はとても大きく、そして深い悲しみを含んでいることはわかる。少女は疑問を持ちながらも青年を見つめて言葉を紡いだ。
「私、あなたと出会ってから、この世が自分のものになったの。ずっと消えてしまいたかったのに、あなたに生きる術を取り上げられた瞬間、私の中の本能が生きたいって叫んだの。血液の声を初めて聞いたわ。そしてあなたが私に生きるか死ぬかをきいた。それを自分で決める自由をずっと求めていた。そして私の選択をあなたは当然のように受け入れてくれた。その時とても嬉しかった」
つい一、二ヶ月前のことを懐かしむように思い出し、暗闇の中微笑む彼女は月から舞い降り、これから天に帰るかぐや姫のようだ。シルクのような滑らかで優しい言葉をその口から生み出す。しかしそれは時が来れば月に帰る。青年は少女の言葉を聞いて確信した。彼女はやはり姫だったのだと。彼女は完璧だ。
例え身体のパーツが足りていなくとも、例え非力でも、美しくて、芯のある彼女の在り方は人間として幸せになるのに相応しいと感じられた。その眠りを覚ましたのが怪物でなければ、彼女は本当に完璧だった。青年は虚しかった。己という存在が、何よりも。
「僕は……」
青年は口を開いた。真夏の悪夢を拭うように。その虚無感を拭い去るように。
「僕は君にずっと隠し事をしている。もちろん君だけにじゃない、この世の全ての人間にだ。僕は自分が嫌いだ。出会った当初の君のように。僕は、忌むべき存在だと、今までこの秘密を知った人びとに言われてきた。別にそんなことはどうでもよかったんだよ、だってどうせあいつらは他人で、僕より先に死ぬんだから」
そう一息で言い、呼吸を整える。その拍は三拍か、四拍か。
「僕は誰よりも美しく生まれて誰よりも汚い存在に成り下がった。生まれてから大切だと思ったのは母と弟だけだった。でもその二人は不慮の事故に遭って若くして死んだ。弟なんてまだ八歳だった。死ぬべきだったのは僕だったのに」
少女は何も言わない。青年の脳内では緊急会議が開かれていた。弱気で頼りないところを見せた、少女に嫌われた、離れていってしまう、そんな大声があちらこちらで湧いた。青年は少女の顔を見れなかった。ただ俯いて彼女の髪の端を見る。堪えきれずごめん、そう言おうとした瞬間、目の前に手が伸びてきた。それは少女の細くて頼りなかった手だ。
「あなたは死ぬべきだったとは言えないわ、だって私、あなたがいなければ生きていなかった。私にとってあなたは救世主なのよ」
あなたのせいじゃないのよ、そういって綺麗に笑う少女に青年は目頭が熱くなった。涙の出る感覚に似ている。そういえば、最後に涙を流したのはいつだったか。青年は少女の手をぎゅっと握る。細くて頼りなかった手には血が通い、少ない筋肉が動き、青年の手を想像よりずっと強く握ってくれる。
―王子じゃなくて救世主か
青年はその例えに顔をほころばせた。ずっと自分が養分と幸運を吸い取って生まれたような心地がしていた。誰かにそうじゃないよと慰められたかった。女々しいがそれは確かな欲求であった。
秘密はまだ言えない、だが秘密を取り巻く自分の苦しみは、少なくともこの少女にとって、自分との関係の壁にはならない。青年は自分の臆病を恥じる前にその安心感に身を任せることにした。
「いつかきちんと話すよ」
「約束よ。ただし、話したくなったらでいいけどね」
少女はおちゃらけた風に言って笑った。
二人はそのまま手を繋いで眠りに落ちた。母の手を握って眠る子どものように、その青年の寝顔はあどけなかった。
翌朝、少女は全身の痛みを怪獣のように訴えた。