善と鱗

のんびり静かに暮らそう

生と死と夕焼け-EP9

 それからの数日、二人はお互いの傷には深入りはしないで過ごした。それは今までと変わらない、ただテレパシーのように、少女の傷にも青年の秘密にも触れない。それは怠惰な日常とも言えた。

 

 少女には肉体的な傷だけでなく外的傷もあった。それは初めて青年が少女とその両親を見た時に感じたものとも言える。ただもちろんそれだけが全てではない。少女は確かな愛を求めている。

 

 少女は事故当時、自分の体を初めて見た時、当然に絶望に打ちひしがれた。脚の断面の傷は麻酔を打っているにも関わらず、鈍いとも鋭いともとれない痛みを発する。少女は視覚的痛みと感覚的痛みの両方に苦しめられた。頭を右に振って病室を見渡したが、そこに求める姿はなかった。少女はその時、絶望と不安と痛みを一人きりで耐えると言う経験をした。

 

 その日の数時間後、仲睦まじく腕を組んだ夫婦が少女の病室へ入ってきた。少女の目にはそう映った。

 少女の両親は少女の年齢からすると年をとった両親だった。しかしだからこそ、喧嘩は少なく落ち着きのある、ご近所さんも羨む夫婦であった。そして少女にとっても、二人は理想の夢であった。

 

 いつかは広いお庭のある家で大型犬と男の子と女の子の二人の子どもと、旦那さんと、駆け回ったり、サンドイッチを作ったりして幸せに過ごすのだと、少女は幼いながらにチープで捻りのない夢を見ていた。

 

 そんな少女の安い夢は崩れ落ちた。当たり前に訪れたであろう夢は、叶わぬものとして海の藻屑となり、バラバラに流れて何処かへ行ってしまった。

 

 少女には駆け回るための脚がなくなった。少女の求めていた理想の夫婦は、理想ではなくなった。彼らは時として子どもを放って何処かへ行ってしまう。肝心な時に、苦しい時に、抱きしめて欲しい時に、温もりを感じたいときに、そばにいてくれない。二人は二人で愛し合っているのだから、それはある意味当然なのかもしれない。ただ、子どもの立場の少女にはそれはあまりにも酷であった。

 

 少女は失望した。自分の両親に。

 

 二人はなぜ自分を生かした。決まってる、それは自分が二人の間の子だからだ、二人の愛の物理的証拠だからだ、そう少女は思った。その思考は少女の生きる活力を、夢を見る力を奪い去った。

 

 自分という存在に生きている価値はない。 

そんな思いが少女の中で木霊した。それは煩悩を消す除夜の鐘のように響き渡り、他の感情を排除した。そうして少女は心を手放した

 

 病室でただ外を眺め続けていた彼女は、自分が無駄な抵抗をしていることに気づいていた。病室でいくら誰とも話さず、動かず、飲まず、食わずで時を過ごしても何も生まれない。

 

 失ったものは戻って来ないし、どう足掻いたって取り返せない。

 

 そうとわかりながらも惰性的に生きることに慣れてしまった彼女は身動きが取れずにいた。一度は舌を噛み千切ろうか、手首を掻き切ろうか、と行動したこともあった。しかしそれは失敗に終わり、少女は諦め、生きた屍となることを甘んじて受け入れた。そして屍のような生活を始めて数年が経ち、窓辺に天使が舞い降りた。

 

 少女はあの日の出来事を一生忘れないと自負していた。いつもと変わらない景色に突如差し込んだ天使の後光。光の中から現れた天使。こちらを見るその青い瞳に少女は、動いていなかった心臓が動き始める音を聞いた。

 

 少女は彼に何も話しはしなかったが、彼は少女を見て全てを理解したかのように動いた。その様が更に少女にとっての青年を神聖なものにした。

 

 天使が舞い降り、生きるために自分に繋がれていた管を一本一本丁寧に取り外す。その風景は少女の人生で類を見ないほど優雅で優しい殺害行為であった。神がようやく自分の意思を尊重してくれた、そう思った。

 

 しかしそのような思いは束の間で、呼吸が苦しくなり、血圧が変動し、鼓動が激しくなると、少女の眠っていた心は再び生きたい、と叫び出した。それが少女の心の覚醒であった。

 

 少女は気づいていた。本気で死のうと思えば自ら命を断てたこと。それは残酷な決断だが自分の意思とは反していないように思える行動であった。自分の行為を誰かが咎めるとすればそれこそ自分を生かそうとした両親や医師たち程度のものだ。事故にあって引っ越した自分のことを心配する友達なんて、三日もすれば零人になる。そんな冷めた気持ちが湧き出てくる。

 

 咎めてくる人は悲しむだろうか、それとも自分の使った労力が徒労となることを悔しがるだろうか、少女は死なない理由を探すことをやめた。そして死ぬ理由も。どちらも少女にはないのだ。

 

 働き出した心は今までサボっていた分を取り戻すかのように慌しく変化する。時に怒りや焦りに心を奪われ、またある時には喜びと期待に打ち叩かれる。少女はそんな自分の心に疲れてきていた。気力と体力は連動している、そう身を以て感じた。

 

 少女と青年はそろそろ小屋を出てもっと遠い街に向けて動き出そうとしていた。少女は小屋の暮らしにも慣れてきていたから少し寂しさを感じたが、次の街にはきっともっと楽しいことがあると励ます青年の言葉にワクワクもした。

 

 少女は慣れた様子で白く長いスカートをタンスから引き出し片脚を通した。少女はこのスカートが新しい服たちの中でも特別お気に入りであった。すべすべとした肌触りと擦れると鳴るシャッシャッという音がハープの音色のように少女の心を安らかなものにする。

 

 少女は今までの絶望や苦しみを全て忘れたかのように、この世は明るいと信じるようになっていた。どこまでも広くて明るく優しい世界が自分を待っている。他人のためでなく自分のために息ができる。自分のことを自分で決められる。少女の心は鼓動を許された。